クラシック音楽 ブックレビュー


2014年1月28日

◇「ベートーヴェンとベートホーフェン~神話の終り~」(石井 宏著/七つ森書館)

書名:ベートーヴェンとベートホーフェン~神話の終り~

著者:石井 宏

発行:七つ森書館

目次:プロローグ    
      第1章 盛名    
    第2章 有名人の肖像    
    第3章 ゲーテとベートホーフェン    
    第4章 女たちの影    
    第5章 〝不滅の恋人〟    
    第6章 愚行    
    第7章 革命的な音楽家    
    第8章 栄冠    
    第9章 終章    
    巻末付録=〝不滅の恋人〟への手紙

 ベートーヴェンは“楽聖”とも呼ばれ、クラシック音楽の作曲家の象徴的存在であることは、紛れのない事実であろう。特に日本人は、ベートーヴェンを神のごとく慕う傾向が特に強いのではないだろうか。“第九”と聞けば、クラシック音楽ファンならずとも、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」のことだと誰もが分かる。つまり、ベートーヴェンは完全に神格化されており、少しもこれを疑う余地はない、と皆が考え、逆に“楽聖”であるベートーヴェンを少しでも疑おうものなら、方々から石が飛んできそうな雰囲気さえある。しかし、あまりの神格化は、実像を歪んだものにしがちであり、ベートーヴェンとてその例外でない。石井 宏著 「ベートーヴェンとベートホーフェン~神話の終り~」は、神格化されたベートーヴェン像を一つ一つのテーマについて、あたかも事件を追う刑事のごとく、地道な調査と大胆な推理とを巧みに組み合わせて厚いベールを剥ぎ取り、ベートーヴェンの実像に迫る、という力作なのである。構想に3年、執筆に2年をかけた、書き下ろしであるというから、筆者の覚悟のほどが分かるというものだ。筆者の石井 宏氏は、1930年生まれで、東京大学文学部美学科・仏文科を卒業。モーツァルトの評論の第一人者として多くの著作がある。また、2004年には、「反音楽史 さらば、ベートーヴェン」(新潮社)で山本七平賞を受賞している。

 もともと、クラシック音楽の作曲家は、モーツァルトの時代までは、社会的な地位は高くなく、そのこともあり、モーツァルトの墓はない。今、聖マルクス墓地にあるモーツァルトの墓にモーツァルトが眠っているわけではない。共同墓地に集められ、埋められた遺骸に紛れ込んでしまったので、モーツァルトの墓は見つからないのだ。それに対し、ベートーヴェンの葬儀には2万人の群衆が押し寄せたというから、その差はあもりにも大きい。この差は何を意味するのか。ベートーヴェンの偉大な業績もあったろうが、ベートーヴェンの時代になり、作曲家もようやくスターの仲間入りをしたということも大きく影響したのだ。筆者は、この辺から解き起こし、あたかも推理小説のごとくベートーヴェンの実像に徐々に迫って行く。ところで、この書の題名「ベートーヴェンとベートホーフェン」とは何か?ドイツ語読みでは、我がベートーヴェンは、ベートホーフェンと発音される。では、ベートーヴェンは? 何でもベートーヴェンの先祖はオランダ系で、昔のドイツ人がオランダ読みでルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンと発音したのが始まりだとか。ちなみに、ヴァン・ベートーヴェンをオランダ語で解釈すると“赤カブ畑の出身”を意味するそうで、このことからベートーヴェンの先祖は、農夫と推察されるという。この辺は筆者の真実を何とか探り出そうとする情熱がひしひしと伝わってくる。後々このベートーヴェンのこの“ヴァン”が貴族出身を連想させることから、あらぬ騒動を引き起こしていくことになるのだが。

 ベートーヴェンの神格化の決定的な証拠が、残された肖像画である。筆者は「第2章 有名人の肖像」において、残された何種類もの肖像画を1枚、1枚克明に検証していく。我々が接するベートーヴェンの肖像画は、ペンを持ち、苦悩の面持ちで一点を見つめている、1820年にシュティーラーが描いたあの有名な肖像画である。この肖像画なら“苦悩を通して歓喜に至る”ベートーヴェンにピタリと合う、ということで、ベートーヴェンというとあの有名な肖像画を多くの人がまず最初に思い浮かべる。しかし、実際のベートーヴェンの姿は、それとは全く違っていたようなのだ。「彼は背が低く(シンドラーによると155センチくらい)、色が黒く、髪も真黒だというからには、金髪で背の高いふつうのドイツ人の中では、異色の存在であったろう。そのうえ、蓬髪でアバタだらけとなると、どう見ても女にもてる顔ではない」「晩年のベートーホーフェンはむさくるしい恰好をして深夜の街をうろつくので、あるとき、浮浪者と間違えられて、留置所に入れられてしまった。捕まった男は昂然たる態度で『おれはベートホーフェンだ。今すぐここから釈放するようにメッテルニヒに言いたまえ』と言ったという」これらの文章を読むと、従来我々が持つイメージとは大分かけ離れている。しかし、よく考えてみると、晩年作曲に没頭していた時のベートーヴェンの実像は、これにかなり近いことは容易に想像できる。もう、周囲のことにはお構いなしに作曲に没頭すれば、髪もぼさぼさであろうし、髭も剃らなかったであろう。そんな姿で夜の街を歩いていたら、浮浪者と間違えられてもしょうがないのかもしれない。筆者が言いたかったのは、美化されベートーヴェン像でなく、真実のベートーヴェン像なのである。

 このように、同書はベートーヴェンの実像に迫るため、あらゆる角度から次々と検証していく。「〝不滅の恋人〟とはいったい誰なのか」「甥カールとの関係は」「ゲーテとの関係」などなど、あらゆる検証が最後まで続く。読み終えると、どうして従来のベートーヴェン像と真実のベートーヴェンとがこうも食い違うのか、という謎が自然と湧き起こってくる。その答えは、ベートーヴェンの生きていた時代背景に求めることができる。「時代はまさに、プロイセンを代表とするドイツが、国内統一とヨーロッパの覇権を目指す時期にあった。政治的にも、文化的にも、彼らは先進のフランス、イタリア、スペインなどのラテン系諸国やアングロ・サクソンに対して、“追い付き追い越せ”の旗印を掲げて走り出したところであった」これで少し分かってきたぞ。どうも天才作曲家であるベートーヴェンの存在と政治が関係しているようである。悪く言えば、政治がベートーヴェンを利用したのではないのか。「ドイツ人の学者たちは、まもなくこのベートホーフェンの音楽を頂点とした音楽史観を作り上げ、音楽とは崇高なものでなければならず、それはとりもなおさず、ドイツ人の器楽のことであり、その器楽の規範はベートホーフェンとソナタ形式にある、としたものである。・・・この史観は独り歩きを始め、何も知らない日本人やアメリカ人を巻き込んで、居座った」ああなんということか。従来のベートーヴェン像は、意図的につくられた虚像のようなものだ、というのだ。そして、筆者が探し求めていたものは、“等身大のベートーヴェン像”だということが最後になって分かってくる。“等身大のベートーヴェン像”を明らかにすることは、少しも“楽聖”ベートーヴェンを損ねないし、逆に人間臭いベートーヴェンが苦闘して“楽聖”にまでに昇り詰めることができたということが理解できる。“等身大のベートーヴェン像”を知ることは、多くの人に、ベートーヴェンの偉大な業績により深い尊敬の念をもたらすことに繋がるのではなかろうか。(蔵 志津久)

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