クラシック音楽 ブックレビュー


2012年3月30日

◇森本恭正著「西洋音楽論ークラシックに狂気を聴けー」(光文社新書)

 

書名:西洋音楽論~クラシックに狂気を聴け~

著者:森本恭正

発行:光文社(光文社新書)

目次:第1章 本当はアフタービートだったクラシック音楽
    第2章 革命と音楽
    第3章 撓む音楽
    第4章 音楽の右左
    第5章 クラシック音楽の行方
    第6章 音楽と政治
 

 森本恭正著「西洋音楽論ークラシックに狂気を聴けー」(光文社新書)は、これまで我々が漠然と「当たり前」と考えて、特別考えてもみなかったクラシック音楽についての“常識”を、根本に遡って考え直している、貴重な書籍である。「本当はアフタービートだったクラシック音楽」という中見出しを見ると、「アフタービート云々なんて言うのは、ジャズやロックの音楽のことで、クラシック音楽のことではないのではないか」という違和感がたちまち芽生える。アフタービート(この言葉自体は和製英語だそうで、正確な英語はアップビート)とは、例えば2拍子の後拍を強く叩くことであり、ジャズやロックではお馴染みのこと。

 しかし、ベートーヴェンも2拍目を強調することによって、曲を前へまえへと進めて曲を書いた。これすなわちスウィングであると。スウィングなんて言葉を聞くと 私などは反射的にスウィングジャズを思い浮かべるが、ベートーヴェンがスウィングしていたなんて、 思わず「何てことを言い出すのだ」と読みながら思わず考え込んでしまった。しかし、読み進むうちに、このことが西洋音楽の本質に迫ることが徐々に解明されていく。

 ベートーヴェンの有名な交響曲第5番「運命」の出だしは、「タタタターン」ではなく、「『ン』 タタタターン」である。これはアフタービート以外の何物でもないという。「当時のヨーロッパの聴衆には、この強烈なアフタービートを受け入れる土壌があった」と。当時の聴衆は、ベートーヴェンが作曲した新曲のアフタービートに反応し、それがもたらすスイング感に熱狂した、というわけだ。現在のクラシック音楽の聴衆が果たして同じように「運命」を聴くことができるのか。今の聴衆は「運命」と聞いただけで、「運命の扉はかく叩かれる」のような哲学的思考で頭がいっぱいになり、ベートーヴェンが編み出した革命的なアフタービートもスウィング感も感じようともしくなってし まっているのではないか。

 要するにクラシック音楽もジャズもロックも、視点を変えてみれば思わぬ共通点が見つかるのかもしれない。前から指摘されている通り、ジャズとバロック音楽には共通点があるといわれる。共に通奏低音の上に音楽が進行するスタイルだというのである。こう考えてみると、クラシック音楽だ、ジャズだ、ロックだとジャンル分けして互いにそっぽを向いているのは、 意外に滑稽なことなのかもしれない。

 この書、森本恭正著「西洋音楽論ークラシックに狂気を聴けー」(光文社新書)のユニークな点は、幾つか挙げられるが、その一つは、クラシック音楽と民族音楽の違いを曖昧にせず、明白に浮き彫り にしている点だろう。「五線譜は、私が、半分冗談でしかし、内実100%本気で言った通り、 EUROPEAN UNION NOTATIONなのだ。即ち、ヨーロッパ言語を基盤にしている人々に『共通な』表記法なのである」「ヨーロッパ音楽はヨーロッパ言語を基盤にしているが故に、ヨーロッパ音楽は全て基本的にアフタービートだと思っていただきたい」。

 それに対して、邦楽は、「太夫達の謡も篠笛も、奏でられているのは節であって、旋律ではない。求められているのは、微妙な音程のずれから生じる音色で、ハーモニーではないのだ。だから西洋的な音程という概念そのものがあてはまらい」のであると。つまり2つの音楽は、全く違ったものだと指摘する。西洋音楽には指揮者がいるが(階級的組織)、邦楽や他の民族音楽にはそんなものは存在しない。西洋音楽は、曖昧さや雑音を排除した結果、世界を制覇したわけだが、現代音楽になり、逆に雑音を取り込み、西洋音楽の限界の突破口を切り開こうと試みた。

 この書の最後で、森本はベートーヴェンの「第九交響曲」を取り上げる。「殆どの全作品を通じてアフタービートで書いたベートーヴェンが、この彼をして最大の交響曲の終楽章で、オン・ザ・ビートの音楽を書いたのだ。卑近な例だが、私達日本人には阿波踊りのビートを連想させる、ターンタタンタ、という個所を思い出して戴いたら良いだろう。それは正しく東洋由来のものだ」とベートーヴェンをして西洋音楽の限界を予言していたのだという。森本は西洋音楽のこれまでの優位性は認める一方、その限界 にも言及する。西洋音楽(クラシック音楽)一辺倒になる危険性をこの書から少しでも感じ取ることが 出来たら、筆者は「してやったり」と感じるのではなかろうか。

 それにしても、邦楽がもっと我々の身近な存在になれば、また新しい視点が広がるような気もするのだが・・・。この書は、我々にとって“当たり前”の存在になっているクラシック音楽を、ゼロから見つめ直すのに格好の書ではある。 (蔵 志津久)

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  1. moriyama shungo さんからのコメント:

     森本さんのおっしゃる理論を読み、日本で堂々と唱える・・・つまり私と同じ考えの人がいることに感動し、私のタクト感に同調するメンバーから凄い本を読んで興奮しているとメールがあり嬉しくなりました。私は音大で学んだことが間違っていると30歳の時、ある日本人指揮者の教えで分かりました。

     4拍子を強弱中強弱との教えが間違っていて(そのため3拍子の3拍目の在り方や2拍子の2拍目の円運動が創れないこと)、間違った理論、それを本当だと思っている日本人の音楽は脈のない人間のようで感動と自然の呼吸を感じられない。日本のオーケストラの技術は確かに高くなりそろえることにかけては世界のトップクラスだと思うけれど音楽が違うのでつまらない。私もウィーン・フィルやベルリン・フィルに友人がいます。私も彼らと幾たびか仕事をしました。

     彼らのタクト感のあり方は素晴らしい。だからポルカなどにおける2拍子の中の8分音符の微妙な拍間は一生日本人には創れないと思う。

     私は、現在ブルガリア国立ソフィア・フィルの常任客演指揮者やウクライナのLVIV新国際交響楽団の客演指揮者をしていますが大変オーケストラのメンバーとも上手くいっていますし「お前は日本語を話すヨーロッパ人だ」ともいわれます。その前は8年間ロシアでオペラ&バレエオーケストラで指揮をしていました。 バレエは日本の音楽理論で振ると踊りにくいはずで森本さんの理論が日本人にいかに伝えるか大切なことだと思います。

     指揮のテクニックも、「いわゆる叩く指揮ではなく」C・ティーレマンの跳ね上げる(引き上げる)方法が正解だと早く気付かなくてはいけないでしょう。

     森本さんが指揮している姿を一度見せていただきたいものです。

  2. 蔵 志津久 さんからのコメント:

    moriyama shungo様

    森本恭正さんの指揮で、次の要領のコンサートが開催されるようです。

    ラヴェル:マ・メール・ロワ
    エルガー:行進曲「威風堂々」第1番
    ムソルグスキー(ラヴェル編):組曲「展覧会の絵」

    指揮:森本恭正

    管弦楽:ふじのくに交響楽団

    日時:2013年3月20日(祝) 午後2時

    会場:長岡総合会館アクシスかつらぎ・大ホール

    主催:静岡交響楽団 

    協力:浜松フィルハーモニー管弦楽団 他

    後援:静岡県 他

     なお、「ふじのくに交響楽団」とは、浜松フィルハーモニー管弦楽団と静岡交響楽団との混成オーケストラだそうです。

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