クラシック音楽 ブックレビュー


2017年4月05日

◇「嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯」(中丸美繪著/新潮社)


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書名:嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯

著者:中丸美繪

発行:新潮社(1996年7月書籍、2002年8月文庫本が発刊されたが現在は絶版。
         ただし、ネット通販サイトから購入可能)

目次:第1章 斎藤秀雄の育った家
    第2章 演奏家になる夢と希望
    第3章 戦火のなかで
    第4章 「子供のための音楽教室」
    第5章 嬉遊曲、鳴りやまず

 この書籍「嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯」(中丸美繪著/新潮社)は、現在「サイトウ・キネン・オーケストラ」にその名を残す、チェリストであり指揮者であり教育者でもあった斎藤秀雄(1902年―1974年)の生涯を描いた、筆者渾身の評伝である(日本エッセイスト・クラブ賞、ミュージック・ペンクラブ賞受賞)。小澤征爾は1992年に恩師である斎藤秀雄の名を冠して「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」を創立したが、2015年から「セイジ・オザワ 松本フェスティバル(OMF)」として新たなスタートを切っている。このとき、「サイト・ウキネン・オーケストラ」の名称も変更するかどうかを楽団員に訊いたところ、今後も「サイト・ウキネン・オーケストラ」の名称で行こうという結論に達したという。

 海外で演奏する場合や国内でも世代交代が進み斎藤秀雄の名前を知らない若い演奏家が増えつつあることから、名称の変更を考えたのだろうと思う。しかし、楽団員たちは「サイト・ウキネン・オーケストラ」を使い続けることを選択したのだ。それだけ斎藤秀雄に対する敬愛の気持ちが今でも根強いということなんだろうと思う。この書籍の特徴の一つは、単なる斎藤秀雄の評伝に止まらず、わが国のクラシック音楽界の創成期の様子が手に取るように明らかにされていることだ。これらを読むと斎藤秀雄の周りには、わが国のクラシック音楽界で重要な役割を果たす人物が何人も登場することが分かる。斎藤秀雄自身は、アマチュアのマンドリンクラブの指揮者として頭角を現し、チェリストとしてドイツに渡り、帰国後は子供のための音楽教室の教育者として、その生涯を捧げることになる。

 この書の冒頭は、著名な英語教育者であった斎藤秀雄の父親の斉藤秀三郎に関する記述で始まる。直接音楽とは関係ないが、この部分もなかなか興味深い。斉藤秀三郎は18歳で仙台で英語塾を開き、後に仙台英語学校を創設する。詩人の土井晩翠はその一回生であったという。その後、28歳で第一高等学校に教授として就任する。その3年後、31歳の時、神田錦町に正則英語学校(現・正則学園高等学校)を創立して自ら校長となった。斉藤秀三郎は生涯に200冊の英語に関する書籍を残している。昔、私の家にも斉藤秀三郎の英語の辞書が置いてあり、斉藤秀三郎という名前を私は早くから知っていた。

 しかし、それが音楽家の斎藤秀雄の父親であると知ったのは、大分後になってからだ。斉藤秀三郎が妻とらと新居を構えたのは、東京の築地明石町であった。この築地明石町という場所そのものが斎藤秀雄の人格形成に大きく影響を及ぼしたことは疑いないことだ。というのも、築地明石町は、明治政府が初めて東京に外国人居留地を開いた場所であったからだ。「教会から鐘の音が鳴り響き、ミッション・スクールからはオルゴールの音が漏れていた。パン屋や牛乳屋の配達までが讃美歌を口ずさむといわれていた。

 日本語よりどこか英語の似合う町だった。こういったエキゾチシズム漂う明石町16番地に、秀雄は生まれ、幼い日々を過ごしていた。とらは熱心なクリスチャンであり、秀雄は姉たちとともに日曜学校に連れて行かれた。オルガンの音に合わせて讃美歌を歌った」。明治40年前後にこういった環境下で過ごした日本人はそう多くはなかったろう。それでは、斎藤秀雄はすんなりと音楽の道を目指したかというと、そうではなかったのだから面白い。

 実は、斉藤秀雄が最初に目指したのは、造船家への道であった。当時は男が音楽家を目指すと言ったら周囲が引き留めるような雰囲気があり、将来の生活の安定を考えるなら技術屋になるなるのが最善の道であることは誰の目にも確かなことだ。ところが父母の故郷にある第二高等学校を受験したが、斉藤秀雄は受験に失敗してしまう。ここで造船家への夢は潰えたのだ。もし、受験に合格していたなら音楽家としての斉藤秀雄は存在しなかったことを考えると、わが国のクラシック音楽界にとっては非常にラッキーな失敗だったと言わざるを得ない。ここで注目すべきことは、斉藤秀雄はもともと理科系的な発想の人物であったことである。
  
 このことが後に、世界初と言われる指揮に関する書籍「指揮法教程」(1956年刊)に結実、いわゆる“斉藤メソッド”を生むことになるのである。東京大学理学部在学中に作曲の道を歩み始めた別宮貞雄は次のように語っている。「普通日本の音楽家は、外国で勉強したことを伝えるというのが多いが、斉藤先生の場合は違うんでね。自分で分析して教えるという科学者的やり方をしたんだ。・・・西洋近代科学がそうであったように、西洋近代音楽の精髄を、科学的研究によって分析して演奏解釈として生徒に教えたんですよ。斉藤先生はけっして音楽の神秘を無視したではないが、90パーセントは自然科学のように音楽をやっていたんですよ」。理科系出身の作曲家である別宮貞雄の言葉だけに、斉藤秀雄が音楽教育で何をどのようにして成し遂げたのかを鋭く見抜いていたということができよう。

 斉藤秀雄の後半生の大きなテーマとなったのは、何といっても「子供のための音楽教室」の創設とその教育である。1950年、斉藤秀雄48歳の時であった。「子供のための音楽教室」を始めるに当たり、斉藤たちは、「私たちの立場」という文書をつくっている。この冒頭で「今までの私どもの国の音楽教育には、ふたつの大きな欠点がありました。(1)教育を受けはじめるのがおそすぎる。(2)音楽の知識を習うことが軽視されるか、さもなければ抽象的にだけおこなわれた」と指摘している。そしてこの文章の最後には、「子供のための音楽教室」の5つの課題が掲げられているが、特に注目されるのが5番目の課題「個人の演奏だけでなく、合唱、合奏の訓練をする」であろう。斉藤の考えには、最初からオーケストラの結成という大テーマがあったのである。

 オーケストラが存在すれば、そこには当然指揮者の育成もなければならない。そのために斉藤自ら「指揮法教程」を執筆し、これを教材として、斉藤メソッドによる指揮者教育が行われた。その斉藤メソッドをいち早く世界へ向かって体現したのが、桐朋学園音楽科の一期生の小澤征爾、さらに秋山和慶たちだったのである。この書には、北軽井沢の夏合宿で、ござに座って子供たちの演奏の指揮をする若き日の小澤征爾の珍しい写真が掲載されている。

 斉藤秀雄の厳しい教育現場の模様がしばしば登場する。眼鏡を床にたたきつけるほど怒りだしたら誰も止めることはできなかったほど。でもそれがあったからこそ、渡米した斉藤の桐朋学園オーケストラは、ニューヨーク・ポスト紙から絶賛を受けるほどまで成長できたと言えよう。そして、斉藤秀雄は「肉体こそ失ったが、いまだに弟子達の内部を彷徨している」のである。

 この書は、1996年7月に単行本で、2002年8月に文庫本で、それぞれ新潮社から発刊されたが、今回、新潮社に問い合わせたところ絶版になっているとの回答。しかし、ウェブ通販サイトからは購入は可能だ。これは、斉藤秀雄の評伝という意義ある書籍であると同時に、わが国のクラシック音楽界の基盤が如何に形づくられて行ったかの生き証人のような書籍。絶版とはあまりに残念なことではある。(蔵 志津久)

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2017年1月16日

◇「ブルックナー」(根岸一美著/音楽の友社)


ブルックナー

書名:ブルックナー

著者:根岸一美

発行:音楽の友社(作曲家◎人と作品シリーズ)

目次 : 【生涯篇】

        聖フローリアン教師時代まで(1824―1855)
        リンツ時代(1856―1868)
        ウィーンで(1868―1884)
        絶頂期(1884―1891)
        晩年(1891―1896)

     【作品篇】

        エクアーレ ハ短調~交響曲第9番 ニ短調 終楽章

     【資料篇】

        人名索引
        曲名索引
        ブルックナー年譜
        ジャンル別作品一覧
        主要参考文献

 アントン・ブルックナー(1824年―1896年)という名前を聴くと、反射的に9つの交響曲それにミサ曲などの宗教音楽の大家ということを思い浮かべる。そういう意味では、著名な作曲家の一人ではあるが、この書籍「ブルックナー」(根岸一美著、音楽之友社刊)を読むまで私は、何となく「ブルックナーは偉大な作曲家ではあるが、孤高の人で、名誉欲や金銭欲とは無縁な純粋無垢な性格であり、生前はその実力が評価されずに世を去ってしまった」といったイメージを抱いていたのである。ところがこの書を読んでみると、このようなイメージとは程遠く、実は、生前から評価は圧倒的に高く、当時の人気作曲家の一人であったようだ。もっとも正当な評価を受けるまでには、相当な時間と努力が必要とされたのではあるが・・・。それに、名誉欲も相当なもので、教授職を得るまでの本人の周囲への働きかけは、凄まじいものがあったことが描かれている。当然、その裏には金銭的な保障というものがあったはずであり、金銭欲も人並みにあったということが証明される。それに加え、孤高の人というイメージとは程遠く、肉親からの援助や周囲との交流も活発に行われていたこともこの書から読み取れる。だからと言って、これらの真実はブルックナーの作品を少しも傷つけるものではなく、逆に、普通の生活を送った人が、よくあれほどまで崇高な作品を書き上げたことにこそ感心してしまう。

 この書の一つの読みどころは、当時の著名な音楽評論家のエドアルト・ハンスリック(1825年―1904年)とブルックナーの対立についてである。簡単に言うと、ことあるごとにハンスリックは、ブルックナーの新作にケチを付け、ブルックナーの評価を下げるような文書を発表し続けたことが、この書からよく読み取れる。この背景には、有名なブラームス派対ワーグナー派の対立という、今考えれば実にバカバカしい騒動の渦中だったのである。ブラームスの古典的な作品づくりに対し、ワーグナーの作品は、無調の領域にも足を踏み入れるなど、当時としては革新過ぎるほどの作品が話題となっていた。ハンスリックは、ブラームス派の旗手として、ワーグナー派と見られる作曲家をけちょんけちょんにけなしまくったのである。例えば、当時ワーグナー派と目されるリストのピアノ協奏曲第1番を聴いたハンスリックは、トライアングルが活躍する場面ををとらえて「トライアングル協奏曲」と言い放ったのであった。ハンスリックは、ワーグナー派の作曲家の一人であるブルックナーの作品が発表される度に評価できないという内容の評論記事を書いた。こんなこともあり、当初はブルックナーの作品は人々から評価を得られないでいた。ところが、この書には、ブラームスがブルックナーの作品を聴きに度々コンサート会場に姿を現したことを明らかにする。つまり、ブラームス自身は、ブルックナーを正当に評価していたのだ。これを見ると、ブラームス派対ワーグナー派の対立などは、音楽史上あまり意味がないことが明らかだ。

 ブルックナーというと必ず付きまとうのは、改訂版の存在である。この書には事細かく改訂版の出自の由来が記載されている。まあ、どんな作曲家も改訂版はつくるが、ブルックナーの場合は、改訂版だらけと言ってもいいほどの“改訂版魔”に染まってしまっているかのようだ。改訂版の始まりについてこの書では次のように記載されている。「こうしてウィーン・フィルにようやくうけいれられた交響曲第2番は、翌1876年2月20日、第3回楽友協会演奏会において新たな演奏の機会を得た。指揮はこのときもブルックナーが務めたが、演奏に先立って、ブルックナーは、ヘルベックの説得を受け入れ、いくつかの削除を伴う改訂をおこなった。それはあくまでも聴衆にうけいれやすくするための提案であったのだが、このことは彼の作曲活動を特徴づける『改訂』の不気味な端緒ともなった」。筆者の根岸一美氏も“不気味な端緒”と書かざるを得ないほどである。ブルックナーの交響曲は、当初、ウィーン・フィルによって「演奏不可能」と烙印を押されるされるなど、高い演奏技巧を要するものであったので、ブルックナー自身も自作の見直しは止む追えないことと考えていたのであろう。それに加え、ブルックナーの交響曲は演奏時間が長い。となると聴衆を引きとめるための最善の策を講ぜざるを得なかったということでもあろう。現在でもブルックナーの交響曲の演奏については、何版を採用しているということが一つの話題となるほどである。

 この書は、ブルックナーの生涯を綴った 【生涯篇】だけで164ページを要しているが、このほかに【作品篇】として64ページ、さらに 【資料篇】 (人名索引/曲名索引/ブルックナー年譜/ジャンル別作品一覧/主要参考文献)として25ページが付けられている。このため、交響曲の何番を直ぐに知りたいと思うときには、【作品篇】のその曲が記載されている項目だけを拾い読みするだけでその曲の概要を把握できるように配慮されている。例えば、「交響曲第9番」の項目を見ると「ポーランドのクラクフに所在が確認された第1楽章のスケッチに『1887年8月12日』という日付が記されており、ブルックナーは交響曲第8番の初稿を完成した2日後に第9番の仕事にとりかかったようである。しかし、・・・」といったようにその曲がつくられた背景から、各楽章ごとに分け内容の分析が記載されている。これは、ブルックナーのコンサートへ出かける前や自宅でCDやFM放送を聴く前に読んでおけば、聴いた後の感激も一層深まることに違いない。また、【資料篇】 は、詳細を極めており、ブルックナー研究書としての価値を高めている。要するに、ブルックナーのことを知りたいと思うときには、この書一冊があれば、まずはその全てが把握できるような配慮がされている意味でも貴重な書籍である。
(蔵 志津久)

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2016年9月07日

◇「プロコフィエフ~その作品と生涯~」(サフキーナ/新読書社)


プロコフィエフ

書名:プロコフィエフ~その作品と生涯~

著者:サフキーナ

訳者:広瀬信雄

発行:新読書社

目次:読者に
    ソンツォフカからきた少年
    ペテルブルク音楽院の生徒
    音楽院を卒業して
    遍歴
    帰郷
    『彼は永遠に勝利した』

 プロコフィエフ(1891年―1953年)は、同時代のストラヴィンスキー(1882年―1971年)、ショスタコーヴィチ(1906年―1975年)と共に、我々日本人にとっても馴染みの深いロシアの作曲家である。ストラヴィンスキーは天才肌の革命児、ショスタコーヴィチは旧ソ連政府の圧力屈せず戦い抜いた闘士といった強烈な印象を与えているのに対し、プロコフィエフの実像はというと、個性的なこれらの2人に比べて、もう一つ鮮明になっていないような印象を受ける。プロコフィエフの作品は、ショスタコーヴィチとは異なり、陽気さがその根底にあり、メロディーが豊かで、突如エキセントリックな部分も現れるが、ストラビンスキーほどの革新さではなく、大方、平穏に安心して聴き通すことができる。言ってみれば、ストラヴィンスキーの革命性と悲壮感漂うショスタコーヴィチの間に立つ、常識的で伝統を重んじる作曲家という評価は、果たして正しいのであろうかという疑問が常に私の頭をよぎっていたのである。そんな折、「プロコフィエフ~その作品と生涯~」(サフキーナ著/新読書社)が目に留まり、早速読むこととした。

 この書「プロコフィエフ~その作品と生涯~」は、プロコフィエフの生涯が簡潔な文書で綴られていて、プロコフィエフの生涯を一通り頭に入れておくには恰好の書物と言える。それに巻頭のグラビア写真が20ページ掲載されており、これだけ見てもプロコフィエフの生涯が自然に頭に入るので有り難い。プロコフィエフは、どのような青年であったのであろうか。「彼の中には、真面目さ、根気強さ、意志、勤労愛が見事に組み合わさり、そして、腕白、発想、冗談の準備が整っていた。彼は並外れて容易になんでも学ぶことができた。つまり、彼にとって音楽は喜びの源泉であり、陰気な棒暗記や、罰や、失敗ではなかった。皮肉も、加わった高度に発達彼の批評精神は、自己の個性と、見解の独自性を守る役目をした」。何かプロコフィエフ青年のこのような性格は、作曲した作品のバックボーンとして、生涯を通して貫かれているように思われる。ショスタコーヴィチの作品ほどの深刻さは持ち合わせず、さりとて、大衆迎合ではなく、批判化精神もたっぷり持ち合わせているのがプロコフィエフの作品の真骨頂ではなかろうか。

 ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチが過ごしてきた時代は、第1次世界大戦、旧ソ連体制下の第2次世界大戦とその後の冷戦の真っただ中にあったわけであり、このことを抜きにこの3人の音楽を論じることは不可能だ。この中でストラヴィンスキーだけは、第一次世界大戦勃発とともにスイスに居を定め、1917年に起きたロシア十月革命により故国の土地は革命政府に没収され、最後はアメリカへと亡命する。一方、旧ソ連政府は、労働者階級に貢献する芸術活動を芸術家に強要し、プロコフィエフとショスタコーヴィチは、この壁にぶち当たる。ところが、プロコフィエフはいち早く世界的名声を得た作曲家だったためか、比較的自由に海外への演奏旅行が許された(黙認された)。この途中プロコフィエフは、日本へも立ち寄り、ピアノ演奏会を開催し、その後のわが国のクラシック音楽界の向上に大いに寄与したと言われている。この辺のところまでは同書は立ち入っていない。「ウラジオストックまでシベリア横断鉄道で18日間、やむを得ず日本に2か月間滞在、そして最後はホノルル経由でサンフランシスコまでの長い船旅。アメリカは好奇心と不信感を持ちながらプロコフィエフを迎えた」。このアメリカでの音楽生活が、その後のプロコフィエフの作品の性格に少なからぬ影響を与えたことは疑いのないことだ。

 その後、プロコフィエフは、祖国ロシア(旧ソ連)に戻る。「大祖国戦争(第2次世界大戦)は、試練であった。これは一人ひとりのソビエト市民に対し、精神的、肉体的な力のすべてを動員し、勝利の名の下にありとあらゆるエネルギー、労働力、才能を犠牲にすることを余儀なくした」。勿論プロコフィエフも例外ではなかった。プロコフィエフは、赤軍として戦っている同胞を支援するかのように作曲に励むことになる。しかし、そんなプロコフィエフですらショスタコーヴィチなどと共に、1948年、ジダーノフによって「形式主義作曲家」として批判されてしまう。スターリンは1953年3月3日に死去するが、実はプロコフィエフも同じ日に世を去っている。スターリンの死は世界を駆け巡ったが、プロコフィエフの死に気付く者は誰もいなかったという。プロコフィエフの自己の作品に対する姿勢について、筆者のサフキーナは次のように書いている。「プロコフィエフの生活、それは果てしない探究、疲れ知らずの仕事、物おじしない実験の実例である」と。プロコフィエフが生きていた時代の背景を考えながら、改めて彼の作品を聴いてみると、深い感慨が胸をよぎる。(蔵 志津久)

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2016年6月14日

◇「指揮者の世界」(近藤 憲一 他著/ヤマハミュージックメディア)


指揮者の世界

書名:指揮者の世界    

著者:近藤憲一 他

発行:ヤマハミュージックメディア(1冊でわかるポケット教養シリーズ)

目次:第1章 コンサートホールに出掛ける前に
       「指揮者って何?」「指揮者って何者?」がわかる基礎知識
        
       付録:名指揮者20のエピソード(文・西村 理)

    第2章 コンサートホールの「指揮者控室1」にて
           この道35年。祭壇を刺激し続ける井上道義さんの「僕が指揮者になって、
           今も続けている理由」

    第3章 その1 コンサートホールの「指揮者控室2」にて
            日本中のオーケストラが、次代を担う逸材と期待している若手指揮者下野竜也さんが
            語った「親方への長い旅程」
          その2 「文化庁長官室」にて
            心理学者 河合隼雄さんに聞いた「指揮者の条件」

    第4章 指揮者とオーケストラの奇妙な友情 その1 都響「コンサートマスター控室」にて
           矢部達哉さんが語った「指揮者は、オーケストラを超えていたら勝ち」
          指揮者とオーケストラの奇妙な友情 その2 コンサートホールの「楽員控え大部屋」にて
           あるオーケストラ楽員たちの”トリッチ・トラッチ”ナイショばなし

    第5章 舞台裏の仕事人たち
        オーケストラマネジャーという仕事がある ”不思議な生命体”指揮者とオーケストラに献身する
        黒衣(文・岩原 正夫)

        セイジ・オザワ サクセス・ストーリー
          ある音楽記者の「僕にとっての“小澤征爾”」

        付録:独断選定「世界の名指揮者50」

 指揮者の仕事は、考えて見れば不思議なものだ。自分では楽器は演奏しないが、オーケストラという楽器を、あたかも演奏するがごとくに振る舞う。そして、演奏が終了すると、聴衆からのブラボーを、舞台の真ん中の一段と高いところで一身に受け取る。誠にもって男冥利に尽きる職業ではなかろうか(もっとも最近では女性指揮者も多くなってきたが)。でもクラシック音楽の歴史を紐解けば、指揮者は最初からいたわけではない。古楽の時代は小規模の室内楽が中心であり、特別指揮者は必要でなかったし、バロック時代も大体似たようなものだった。ところが大編成のオーケストラが出現し始めると、全体を束ねるための指揮者が必要となり、その後、これらの指揮者は、自分の解釈で楽曲を演奏し始めることになる。こうなるとオーケストラにとって指揮者は、徐々に雲の上の存在となり、楽団員にとって、指揮者は怖い存在になって行くことになる。

 これは、あたかも企業における社長と社員の関係を思わせる。企業にとって社長は怖い存在の方が、一般的に言って業績が良いようだ。社長と社員が友達のような関係では、中小企業ならともかく、大企業ではなかなか良い結果は出しずらいのではなかろうか。大編成のオーケストラも大企業と似たところがあるらしく、怖い指揮者の方が、結果的に名演奏を聴かせてくれるようだ。このため、楽団員との私的な関係を一切持たないというポリシーを貫き通す指揮者も少なくないという。情が出ればどうしても思い切った要求が出しづらくなるからなのであろう。月刊「文芸春秋」2016年6月号に「ベルリンは熱狂をもって小澤征爾を迎えた~マエストロの華麗なマジックを追った二夜~」(村上春樹著)に、小澤征爾がベルリン・フィルについて語っている個所が出てくる。「彼ら(ベルリン・フィル)は、僕らの手や身の動きを見ていて、僕の意図をそこから理解するんです。ドイツ語でアフタクト(auftakt)っていうんだけど、日本語だと『呼吸』『息づかい』とでもいうのかな、それをさっと感じ取ってくれる。そしてそれに合わせて演奏を微妙に変えていきます。だからいちいち口に出して注意する必要はない。彼らは耳もいいし、勘もいいし、それに合わせて演奏を変えていけるだけの技術を持っています」。ここに書かれていることは、名指揮者と名オーケストラの場合の話であり、一般的な指揮者とオーケストラの関係の話とは言えないが、如何に指揮という仕事が第三者には、分かりづらいかを物語っていると思う。

 こんな不思議な存在の指揮者ではあるが、では指揮者の仕事とは実際どんなものなのか、ということに真正面から取り上げた書籍はありそうでいて、なかなかないのである。そん中で、この「指揮者の世界」(近藤 憲一 他、ヤマハミュージックメディア刊)は、指揮者の仕事の中身はこんなことですよと、第一線の指揮者に取材し、素人でも理解できる範囲で書かれているところに、その存在意義が大いにあると思う(同書は、2006年にヤマハミュージックメディアから発刊された「知っているようで知らない 指揮者おもしろ雑学事典」を文庫化し、2015年に発刊された)。「指揮者になるための必須条件とは何でしょう?」という筆者の問いかけに、指揮者の井上道義は「本物の指揮者は、その人が出てきただけで音楽を感じさせなければならない。しゃべって説明するとき、ちょっとピアノで弾いてみてって言われたら弾いてみせなければならない。そういうときにきちんと感動を説明出来るだけのもの、簡単な話、音楽性がなくちゃいけないと思う。・・・いわゆるリーダーシップを持つ。それから、探究心っていうかな。スコアの勉強って、ものすごく時間がかかるんですが、それを厭わない忍耐力、そして体力。体力はものすごく要ります。・・・音楽家以外の人に、音楽に投資させてしまうようなカリスマ性というか、ひとつ間違えれば詐欺師みたいな能力(笑)。」と答えている。

 確かにこれらの要件を満たせる演奏家はそうざらにいないであろう。名ヴァイオリニストにリーダーシップを求められるかといえば、それはほんの一握りに限られよう。ましてや、音楽家以外の人に、音楽に投資させてしまうようなカリスマ性をもっている音楽家は、滅多にいないであろう。ここまで読み進めると、演奏が終わり、聴衆からのブラボーを、指揮者が舞台の真ん中の一段と高いところで、一身に受け取ることは、当たり前かなとも思えてくる。楽団員からすると、自分たちが持ち合わせていない能力を身に着けた指揮者は、やはり雲の上の存在なのかもしれない。井上道義は「指揮者の仕事は、山登りのシェルパみたいなものだと思ってるんです。昨日の団体さんはこの山をこっちのコースで登りたいといったけど、今日の団体さんはあっちのコースで登りたいと言う。それを聞いてもいいんです、彼らはその山に登りさえすればいいんですから」と話を続ける。つまり、オーケストラの能力に合わせることも指揮者の仕事の一つということなのであろう。

 ところで、指揮者を置かないオーケストラもある。例えば、世界的に知られたオルフェウス室内管弦楽団などは、指揮者を置いていない。また、日本でも、NHK交響楽団の人気コンサートマスター、“マロ”こと篠崎史紀氏が主宰する、国内トップ奏者によるスーパーオーケストラ「Meister Art Romantiker Orchester=MARO(通称:マロオケ)」なども、指揮者を置いていない。こういうケースをみると本当に指揮者は必要なの?という素朴な疑問が頭を過る。これについて指揮者の井上道義は同書で次のように語っている。「やっぱり指揮者がいないとオーケストラは成り立たないのですよ。20人以上だったら指揮者がいると思う、19人だったらとか細かいことは言わないけれど(笑)。オルフェウス室内管弦楽団というオーケストラも何度も聴いていますけど、うまくいっているときと、いかないときがある。うまくいっているときは、コンサートマスターがちゃんとリードしている。ちゃんとリードしていないオルフェウスはつまらないんです。リードするのが指揮者なんですよ」。

 同書の読みどころは、指揮者やコンサートマスターに直接取材し、要点を訊きだし、それを素材に読者に紹介しているところだ。このため、指揮者やコンサートマスターが何を考え、演奏しているかが手を取るように分かる。付録の「名指揮者20のエピソード」および「独断選定「世界の名指揮者50」もコンパクトにまとめられ、大いにリスナーの参考になる。(蔵 志津久)

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2016年4月20日

◇「笑うマエストロ~国立交響楽団の表と裏~」(尾崎晋也著/さくら舎)


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書名:笑うマエストロ~国立交響楽団の表と裏~

著者:尾崎晋也

発行:さくら舎

目次:第1章 いきなりマエストロ暮らし
    第2章 マエストロは一人旅
    第3章 マエストロの想い
    第4章 マエストロは休めない
    第5章 マエストロの楽屋裏
    第6章 マエストロの美味美観

 日本のクラシック音楽の演奏家の多くは、若き日に欧米に留学し、ある程度の成功を収めると、直ぐに日本に帰ってきてしまって、その後は、日本で有名演奏家としてその名を馳せる、といったケースが多いように思う。ところが、この書「笑うマエストロ~国立交響楽団の表と裏~」の著者である指揮者の尾崎晋也の場合は、少々事情が異なるようなのである。若き日にヨーロッパに向かうところまでは、一般の日本人演奏家と同じなのであるが、その後がどうも違うのである。尾崎晋也の場合は、成功を収めても、そうは簡単に日本には帰らない。成功を収めれば収めるほど、現地に踏みとどまろうとする。この背景には、卓越した語学力などを備えているといった、いくつかの条件が整っていることもあるだろう。しかし、それらのことを差し引いても、現地に踏みとどまって、日本人として現地で成果を挙げることは、大きな意味を持つのではないか。ヨーロッパの聴衆は、尾崎晋也の指揮ぶりを通して、日本そのものに愛着を感じるであろうし、親近感を持つであろう。

 この書は、そんな尾崎晋也自身が、2003年6月~2014年10月まで、南日本新聞に掲載した連載エッセイ「指揮棒の休憩」を基に単行本化したもの。一言で言えばエッセイ集には違いないのであるが、いわゆる一般のエッセイ集とはひと味もふた味も違った、中身の濃いエッセイ集に仕上がっている。言ってみれば、「我が半生記」とでもいった趣のある内容になっている。尾崎晋也は、ルーマニア国立トゥルグ・ムレシュ交響楽団常任指揮者・芸術監督、それとトランシルバニア室内管弦楽団音楽監督を務めている。ルーマニアと聞くと、バイオリニストのエネスコ、それにピアニストのディヌ・リパッティなどの名を思い出す。しかし、何故、尾崎晋也はルーマニアの地に赴くことになったのであろうか。尾崎は、ルーマニアで開催される国際指揮者コンクールに応募した。そして、忘れかけたころに、ルーマニアから書類審査に合格したので参加してほしい、という電話があったという。当時、尾崎は「ダメだったら観光でもしてくるか」くらいの気持ちで出かけたようだ。結果は3位であったが、第二次予選を終わった時に、既に現地のオーケストラからオファーがあったというから、凄い。

 さて、この「笑うマエストロ~国立交響楽団の表と裏~」には、手兵の「ルーマニア国立トゥルグ・ムレシュ交響楽団」をはじめととするヨーロッパのオーケストラの楽団員たちの日常の機微が描かれており大変興味深い。日本へもしょっちゅう欧米のオーケストラが来て我々聴衆を楽しませてくれるが、舞台裏ではこのようなことが行われているのか、と思うと親近感が増すのである。ベートーヴェンの「運命交響曲」を指揮したときのこと。「『エィ!』と一振り、気合で指揮した。心中に考えをめぐらせる間もなく振り下ろしたのだ。電光石火、ゼウスの怒りのような4つの音が出た。コンサートマスターも上手にリードしてくれた。彼に感謝の意を伝えると、『もう私たちは14年も一緒に舞台を踏んでいますからね』 そうか、技術に信頼関係をプラスするのを忘れていたな」。指揮者とオーケストラの関係は、このように状態になって最高の演奏が出来ることをここで語っている。「また、翌日のランチのとき、若いウェートレスが注文をとる前に言った。『昨晩の指揮はいつもとかなり違っていましたね』『ヘェ わかった?』『だって10歳のときからあなたの指揮を見ていますもの」。この辺は、日本と違い、クラシック音楽が自分達の音楽そのものという感じが滲み出ている。

 この書の特出すべき点の一つは、筆者の尾崎晋也が本音で語ってくれていることだ。「1日オフの日があったので、大好きな歌舞伎を観に行った。・・・この日の演目『恋飛脚大和往来』を見るのは二度目だ。・・・こういう日本の芸術に接するときには、僕らはそれだけで説明もいらぬ文化的背景を持っていると感じる。歌舞伎を観るたび、『こんな感じで西洋の文化芸術がわかったら・・・』と、ついため息が出る」。長年ヨーロッパを本拠を置き、ヨーロッパの聴衆から絶賛を浴びてきた尾崎にして、文化の違いを乗り越えることは、並大抵のことではないことがわかる。いま日本ではグローバル化が叫ばれているが、尾崎はこのことについても、鋭い見方をする。「最近よく国際化、グローバル化というが、何を持って国際化なのか分からないで発言していることは少なくない。英語を話せれば国際人、というキャッチフレーズなどは滑稽に思える。彼らからすると、複数の外国語を話す僕は大変な国際人になっているのだろう。よく『尾崎さんは国際人ですね』といわれるが、『いいえ、薩摩人です』と答えることにしている」。この書は、クラシック音楽がテーマで書かれてはいるが、例え、クラシック音楽には疎くても、それぞれの国の文化のあり方、異民族同士のつきあいのあり方、などなど、人間として持っている根源的なあり方を改めて考えさせてくれる書籍でもある。

 最後に著者の尾崎晋也(1959年生まれ)の経歴を見てみよう。鹿児島県谷山市(現鹿児島市)出身。桐朋学園大学で指揮を小澤征爾、秋山和慶、黒岩英臣、森正に師事。卒業後、ヨーロッパ各地、アメリカで研鑚を積み、アメリカ・ペンシルベニア州で指揮活動を始める。1992年ルーマニアで行われた「ディヌ・ニクレスク国際指揮コンクール」3位入賞。以来、ヨーロッパ、アメリカ、日本の各地で活躍している。1994年より、ルーマニア国立トゥルグ・ムレシュ交響楽団の常任指揮者を務め、1999年からは音楽監督に就任。また同年よりトランシルバニア室内管弦楽団の音楽監督も務める。その活動は評価され、日本の外務省広報ビデオにも出演し、各地の日本大使館で紹介されている。ルーマニア政府からは「文化交流功労賞」、トゥルグ・ムレシュ市からは「名誉市民」の称号が与えられた。2000年より、ルーマニアでの音楽週間の監督を務める。また、2004年5月、スペイン各地で指揮をした。2005年に、これまでの芸術文化に対する功績が認められ、ルーマニアの上級騎士勲爵士(コマンドール)を受ける。2014年日本の外務大臣表彰。指揮活動のほかに東京で、「尾崎晋也プロデュース クラシック&トークLIVE」のコンサートシリーズを開催し、各界の多彩なゲストを交えて、ユニークな音楽会をプロデュースもしている。(蔵 志津久)

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2015年10月12日

◇「リヒテルと私」(河島みどり著/草思社)


書名:リヒテルと私

著者:河島みどり

発行:草思社(草思社文庫)

目次:1970年―出会い
    Ⅰ 巨匠の素顔(家族の愛情に包まれて育つ、モスクワ音楽院の駄々っ子 ほか)
    Ⅱ ヨーロッパへの旅(フランス片田舎のコンサート、ヴェネツィアで巨匠の誕生日を祝う ほか)
    Ⅲ 日本への旅(シベリアの旅を楽しむ、なぜ日本を愛したのか ほか)
    1997年―別れ

 この「リヒテルと私」(河島みどり著/草思社)は、2003年草思社から刊行されたものだが、スヴャトスラフ・リヒテル(1915年―1997年)生誕100年に当たる2015年8月に、新たに文庫版として発刊された。「リヒテルと私」という単純明快な書名が、まず、読者の目を引き付ける。普通、このような書名から連想するのは、リヒテルの演奏や録音についての音楽評論であろう。しかし、この書は、音楽評論とは全く別の視点からのリヒテル像を描き出している。別の視点というのは、ピアニストとしてのリヒテルではなく、“人間リヒテル”を赤裸々に描き出しているのである。私は、これまで、リヒテルのレコードやCDを数限りなく聴いてきたこともあり、リヒテル=神みたいな神格化されたリヒテル像を描いてきたが、この書で初めて人間としてのリヒテル像を思い描くことができるようになった。あのリヒテルが、あるとき、演奏するすることに恐怖感を覚え、苦悩した様子などが、この書を通じて初めて知ることができた。リヒテルも人間であったのだ。では、何故、著者の河島みどりが人間としてのリヒテルに接することができたのか。

 著者の河島みどりは、早稲田大学文学部露文科卒業後、モスクワ大学で研修する。そして1970年の万博のときからリヒテルの通訳をつとめることとなるが、その後、リヒテル夫人の依頼を受け、単なる通訳ではなく、リヒテルの付き人となった。つまり、単なる通訳ではないことが、この書の価値を高めることになる。リヒテルの付き人は夫人の他に、甥のミーチャ、チェコのカレル、イタリアのミレーナがいたが、ヨーロッパでの活動に際しては、ミレーナと河島が主となった。付き人というのは、私設秘書のような役割であり、単なる通訳とか渉外担当役とは違う。その人から全面的な信頼を得て、全てを任せられる人間でなければ、到底付き人役は務まらない。河島みどりは、リヒテル夫妻からの信頼が厚かったらこそ、リヒテルの付き人としての役割を果たせたのである。演奏会が終わると、河島みどりがリヒテルにマッサージをしてあげる場面が、この書にたびたび出てくる。考えて見れば、演奏家はスポーツ選手のように体力勝負であり、演奏会後の体の手入れは、欠かせないのであろう。そんな、27年間にわたってリヒテルの付き人を務めた著者が、巨匠の音楽への愛、芸術観、人となり、少年時代のことから練習の苦しみまで、知られざるリヒテルを描いたのが、この書の最大の特色だ。つまり、リヒテルの付き人であった河島みどりだからこそ、リヒテルの人物像を語ることができたのだ。

 リヒテルは、ドイツ人を父にウクライナで生まれた、20世紀最大のピアニストと称された巨匠である。イメージとしては、ロシア人という印象が強いが、半分ドイツ人のとが混じっている。だから、あのように強靭で構成力のあるピアノ演奏を行うのだと理解がいく。1937年、22歳でモスクワ音楽院に入学し、ネイガウスに師事した。実は、リヒテルが亡くなった時、日本で追悼コンサートが行われたが、この時、演奏したのがブーニンとボロディン弦楽四重奏団であった。ボロディン弦楽四重奏団とリヒテルはしばしば共演した間柄であったので当然であるが、何故、ブーニンかと言えば、ブーニンはネイガウスの孫で、日本人の妻と日本で生活しているからだ。また、リヒテル生誕100年の2015年春には、 「東京・春・音楽祭―東京のオペラの森―」において「生誕100年記念『リヒテルに捧ぐⅠ~Ⅳ』演奏会開催」が開催されたが、リヒテルと共に活動を続け、数々の名演を残してきたボロディン弦楽四重奏団とピアニストのレオンスカヤがリヒテルへの深い想いを捧げる演奏会を開催した。この書「リヒテルと私」の大半は、ヨーロッパでの演奏会活動の裏舞台の話が中心であるが、日本人のピアノ調律師の話が度々登場し、リヒテルと日本人の結びつきがことのほか強いことが印象に残る。リヒテルは日本びいきであったことが、この書を通してよく理解できる。

 この「リヒテルと私」のⅢ章は、「日本への旅」と題し、日本での演奏会活動の裏話が興味深く読むことができる。「1979年に長崎で2001年宇宙の旅』を見た後、リヒテルは私に言った。『みどり、どう思う?こんなに良くしてくれるヤマハに返礼したい。ヤマハでコンサートをして、ピアノのマスターたちに、彼らのつくった音の素晴らしさを聴いてもらいたいのだけど』」「浜松のヤマハの工場の試聴ホールで最初のコンサートが行われた。200人の作業服のマスターたちが、感無量の面持ちでリヒテルの音に浸っていた。プログラムはシューマンとショパン。舞台と客席が一体となって万感胸に迫る、心に深く刻まれる音楽会だった。ヤマハ創立以来の90年で最高の日だったと社員は感激した」。その時の作業服姿の社員の後ろ姿の写真が掲載されている。通常なら、ヤマハの社長室でヤマハの幹部たちと会えばすむ話であろうが、リヒテルは、自分が弾くピアノを直接つくってくれた現場の人々にお礼がしたいということで実現したコンサートである。リヒテルの人間性が滲み出たエピソードである。このほか、このⅢ章には、「京都の清水寺付近をニーナ夫人とそぞろ歩く(1981年)」「鎌倉の佐助稲荷には来日のたびに詣でた(1981年)」「お茶を楽しむリヒテル。このとき(1981年)はニーナ夫人も同席し、筆者はリヒテルから贈られた着物を着た」などの興味深い、貴重な写真が掲載されており、リヒテルファンには見ごたえが充分にある。ことのほか飛行機が嫌いなリヒテルが、日本にたびたびきたことでも分かる通り、リヒテルが日本を深く愛していたことが、同書を通してよく分理解できる。(蔵 志津久)

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2015年8月12日

◇「ショスタコーヴィチ~揺れる作曲家像と作品解釈~」(梅津紀雄著/東洋書店)


書名:ショスタコーヴィチ~揺れる作曲家像と作品解釈~

著者:梅津紀雄

発行:東洋書店(ユーラシア・ブックレットNo.91)

目次:第1章 革命とショスタコーヴィチ(1906~1932)
    第2章 スターリン体制(1932~1941)
    第3章 大祖国戦争(1941~1945)
    第4章 冷戦とジダーノフ批判(1945~1953)
    第5章 雪どけ(1953~1962)
    第6章 晩年(1962~1975)
    第7章 没後(1975~2005)

 ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906年―1975年)ほど、政治に翻弄された作曲者はいないだろう。プロコフィエフ(1891年―1953年)も同じようなもの、とも言えるが、プロコフィエフは早くから国際的な名声を得たため、当時のソ連政府でさえ、そう露骨に圧力を掛けれなかったとも言われている。ソ連政府がその芸術方針を徹底させるための、いわゆるジダーノフ旋風が吹き荒れる中、ショスタコーヴィチと同年代の芸術家の多くが、追放や生命を脅かされ、あるいは、生命を奪われるという悲劇に直面していた。ショスタコーヴィチも批判の矢面に再三立たされてきたが、そのたびに巧みにかいくぐり、作曲家としての人生を全うしたのである。

 例えば、有名な交響曲第5番も、全体にソ連讃歌の基調を滲ませながら、曲の最後には、ソ連政府の戦争政策への批判が込められている、と指摘をする識者もいる。言ってみればショスタコーヴィチは“面従腹背”を武器に、時のソ連政府から高い評価を勝ち取る一方、現在では、ソ連政府に対し、作品の隠された内容で戦った闘士としての側面が、再評価されているようにも感じられる。ショスタコーヴィチの作品の中でも、現在特に評価が高い交響曲と弦楽四重奏曲を、ともに15曲遺したというのも、その裏に何かが隠されているのではと思わせるところが、如何にもショスタコーヴィチらしい。常に何かを隠しながら作品に取り組んだのが、ショスタコーヴィチの作曲家人生だったのではなかろうか。

 この「ショスタコーヴィチ~揺れる作曲家像と作品解釈~」(梅津紀雄著/東洋書店)は、ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会による“ユーラシア・ブックレット”のNo.91として発刊されたものだ。あくまでブックレットであるため、小冊子の体裁となっている。しかし64ページにわたりショスタコーヴィチの全生涯とその作品の生まれた背景が、手際よく書かれているので、ショスタコーヴィチの生涯を取りあえず俯瞰してみたいという読者やそもそもショスタコーヴィッチという作曲者はどんな人?という疑問を抱いている読者にとっては、打って付けの書籍だ。最初のページに「ショスタコーヴィチ略年表」が掲載されているので、その生涯と主要な作品が書かれた時期が即座に分かる。ショスタコーヴィチの作品を聴くとき、ショスタコーヴィチ通ではない読者にとって、この年表は手元に置いておけば便利この上ない。それに加え、最後の2ページには、「推薦盤」と「文献ガイド」が掲載されており、これも便利だ。

 ところで、ショスタコーヴィチは、ソ連政府からどのような批判を浴びたのであろうか。オペラ「ムツェンスク群のマクベス夫人」の初演の約2年後の1936年1月28日、共産党中央委員会機関紙「プラウダ」が、「音楽の代わりの荒唐無稽」と題して、無署名論説でこのオペラを批判した、とある。要するに、このオペラは、音楽ではなく、“荒唐無稽な音の流れ”だと言うのだ。続いて2月6日には、バレエ「明るい小川」も「バレエの偽善」として同紙は批判した。オペラ「ムツェンスク群のマクベス夫人」は、レスコーフの小説が原作である。夫が出張中に使用人と内通した主人公の女性が舅に見つかり、舅を毒殺した上に、夫も殺害してしまう。2人はシベリア送りとなるが、ここで使用人は若い恋人をつくる。この結果、主人公の女性は、この若い恋人を道ずれに自殺するという筋書きである。別に取り立てて、批判されるような内容ではないようなのだが、当時のソ連政府にとっては、はなはだ面白くなかったようだ。

 ショスタコーヴィチの交響曲第5番は、そんなソ連政府のショスタコーヴィチ批判を一挙に覆し、ソ連政府はショスタコーヴィチを一躍英雄にまつりあげてしまう。共産党政権下での作曲活動の一大成果であると、西側諸国へ強くアピールすることになる。実は、この曲でのショスタコーヴィッチの本心は、ソ連政策の批判にあったとも知らずに・・・。さらに、ショスタコーヴィチは、レニングラードがドイツ軍に包囲された時の「大祖国戦争」勝利を題材に、交響曲第7番「レニングラード」発表する。この曲は、スターリン賞第一席を獲得。要するに、ショスタコーヴィチとソ連政府は、雪解け状態となって行ったのだが・・・。

 宇野功芳氏は「クラシックCDの名盤~大作曲家篇~」(文春新書)で、次のように書いている。「84歳の現在、好きな作曲者に順位を付けるとすれば、ベートーヴェン、モーツァルト、ブルックナーで4番目に来るのが、ショスタコーヴィチである。・・・ショスタコーヴィチに耽美はない。そこにあるは、“絶望”のみであり、彼は現生の苦しみにのたうちまわり、激しく身をよじらせ、ハラワタが裂けるような凄絶なひびきを鳴らす」。ショスタコーヴィチの戦いの相手は、ソ連政府であったのか、それとももっと大きな何かであったのであろうか。(蔵 志津久)

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2015年5月12日

◇ポホヨラの調べ~指揮者がいざなう北欧音楽の森~(新田ユリ著/五月書房)


書名:ポホヨラの調べ~指揮者がいざなう北欧音楽の森~ シベリウス&ニルセン生誕150年

著者:新田ユリ

発行:五月書房

目次:はじめに

   Ⅰ.シベリウスの7つの交響曲

    (シベリウス:交響曲第1番ホ短調/第2番ニ長調/第3番ハ長調/第4番イ短調/
     第5番変ホ長調/第6番ニ短調/第7番ハ長調)

   Ⅱ.シベリウスの主な管弦楽曲

    (シベリウス:クッレルヴォ/春の歌/レンミンカイネン/フィンランディア/
     交響詩「森の精」&「木の精」/ヴァイオリン協奏曲/
     弦楽四重奏曲「内なる声」(弦楽合奏版)/交響詩「タピオラ」)

   Ⅲ.ゲーゼからニルセンへ

    (ゲーゼ:オシアンの余韻/ニルセン:交響曲第1番/第2番「4つの気質」/
     交響曲第4番「消しがたきもの(不滅)」)

   Ⅳ.ポホヨラの調べを受け継ぐ者たち

    (クラミ:チェレミッシュ幻想曲/エングルンド:交響曲第4番「ノスタルジー」/
     ラウタヴァーラ:ペリマンニ(楽士たち)/カントゥス・アルクティクス(鳥の協奏曲)/
     ノルドグレン:左手のピアノと室内オーケストラのための協奏曲/弦楽のための交響曲)

   あとがき ポホヨラとの出会い

   ◆巻末リスト≪北欧の作曲家200人≫
    (フィンランドの作曲家48人/ノルウェーの作曲家38人/スウェーデンの作曲家49人/
     デンマークの作曲家47人/アイスランドの作曲家18人)

 近年になり、北欧の教育や文化に国民の注目が集まり、その結果、北欧の作曲家たちにも関心が向かいつつあるようである。そんな折に「ポホヨラの調べ~指揮者がいざなう北欧音楽の森~ シベリウス&ニルセン生誕150年」(新田ユリ著/五月書房)がタイミングよく発刊された。題名にある“ポホヨラ”とは、フィンランドの言語のフィン語で「北国・北のほう」を意味する言葉。同書は、シベリウス&ニルセン生誕150年に当たる、2015年に出版されたということでも記念すべき発刊となった。

 雑念を取り払い、北欧の作曲家の作品を素直に聴いてみると、日本人の感覚に非常に近いものが感じとれる。日本人は、俳句や和歌(短歌)を、ごく当たり前のこととしてとらえているが、そこには自然と人間の営みが密接に結び合っている世界が広がっている。一方、シベリウスをはじめとした北欧の作曲家の作品の多くも、そんな自然と人間の交わりを描いている。つまり、古来から持っている日本人の感覚に非常に近いものを北欧の作曲者たちは持っているのだ。

 この書の著者である新田ユリは、2014年にシベリウス協会の会長職を、ピアニストの舘野 泉から引き継ぐと同時に、現在第一線の指揮者としても活躍している。国立音楽大学卒業。桐朋学園大学ディプロマコース指揮科入学。指揮を尾高忠明、小澤征爾、秋山和慶、小松一彦各氏に師事。第40回ブザンソン国際青年指揮者コンクールファイナリスト、第9回東京国際音楽コンクール(指揮)第2位。1991年東京交響楽団を指揮してデビュー。2000年10月から1年間、文化庁芸術家在外研修員としてフィンランドに派遣され、オスモ・ヴァンスカ氏のもとラハティ交響楽団で研修。以来継続的にフィンランドはじめ北欧諸国の楽団、音楽祭に客演を続ける。現在、愛知室内オーケストラ常任指揮者、アイノラ交響楽団正指揮者。

 こんな経歴を持つ著者が、Ⅰ章とⅡ章で、シベリウスの主要作品の解説を行っている。それぞれの曲が作曲された背景に加え、一曲一曲の詳細な分析がなされているが、この書の最大の特徴は、学者や評論家では望めない、第一線の指揮者の目で曲の詳細な分析がされていることだ。このため読み進めて行くと、生き生きと曲が蘇るような感じに捉われる。それに加え筆者の北欧、中でもフィンランドの歴史についての知識が豊富に盛り込まれ、シベリウスが作曲した経緯が生き生きと描写されている点が一段と光る。

 Ⅲ章では、我々にはあまり馴染のない“北欧音楽の父”と呼ばれているゲーゼの紹介と、シベリウスと同年生まれで2015年に生誕150年を迎えたニルセンの人物像の紹介と曲の分析がなされている。Ⅳ章では、これまた我々にはあまり馴染がないクラミ、エングルンド、ラウタヴァーラ、ノルドグレンの4人の作曲家の人物像と作品紹介がなされ興味深い。この中の一人ノルドグレンは、左手のピアノと室内オーケストラのための協奏曲~小泉八雲「死体にまたがった男」より~を、舘野 泉のために作曲しており、日本ともつながりのある作曲家であることが分かる。

 さらに、圧巻なのは、巻末リスト≪北欧の作曲家200人≫として、フィンランドの作曲家48人、ノルウェーの作曲家38人、スウェーデンの作曲家49人、デンマークの作曲家47人、アイスランドの作曲家18人が68ページにわたって紹介されていること。これは北欧作曲家辞典ともいうべきもので、この部分だけを独立させた書籍としても売れるのではないかと思われるほどの力作だ。作曲家一人一人の作品と簡単な人物像の紹介が付けられ、ところどころには、「ユリメモ」と名付けられ著者のコメントも付けられている。それにしても北欧の作曲者の層の厚いことに驚かされるが、残念なことに、私が知っている作曲家があまりにも少ないことに、少々歯痒い思いがする。

 このように、巻末リストに至るまで、北欧の作曲家の人物像およびその作品を紹介してある同書であるが、北欧音楽にある程度の知識のある読者は、最初のページから順番に読み進めればいいが、北欧音楽にあまり知識がないと感じている読者は、一番最後に載っている「あとがき ポホヨラとの出会い」から読み始めることをお勧めする。ここには、筆者と北欧音楽との出会い、さらには研修の日々のことなどが12ページにわたり簡潔に述べられている。これを読み終えると、これまで北欧音楽とは少々距離を置いていると感じている読者であっても、一気に距離が近づくのではないかと思うからだ。今後、シベリウスをはじめとした北欧の作曲者の作品が、日本において数多く演奏されることを願うと同時に、筆者である新田ユリの指揮者としての活躍に注目したい。(蔵 志津久)

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2015年4月07日

◇「愛と裏切りの作曲家たち」(中野京子著/光文社)


書名:愛と裏切りの作曲家たち (洋泉社刊 「かくも罪深きオペラ」 改題)

著者:中野京子

発行:光文社(知恵の森文庫)

目次:第1章 ビゼー       「世にも恐ろしい災い」  「カルメン」
    第2章 ヴェーバー    すべては愛のために   「魔弾の射手」
    第3章 ベッリーニ     嫉妬が生んだ名作    「ノルマ」
    第4章 ヴァーグナー   過剰な執着心       「さまよえるオランダ人」
    第5章 ロッシーニ     美食と神経過敏     「セビリアの理髪師」
    第6章 モーツァルト    神童の放漫        「フィガロの結婚」
    第7章 ヴェルディ     「道を踏み外した女」   「椿姫」
    第8章 プッチーニ     オペラ以上の悲劇    「蝶々夫人」

 著者の中野京子氏は、作家・ドイツ文学者であるが、現在、月刊「文芸春秋」に「中野京子の名画が語る西洋史」を連載していることでも分かるように、趣味である絵画さらにはクラシック音楽にも精通している。その中野京子氏が1999年に洋泉社から発刊した「かくも罪深きオペラ」を改題して、新たに「愛と裏切りの作曲家たち」として、このほど光文社から発刊されたのがこの書である。全部で8人のクラシック音楽の大作曲者が作曲したオペラの一曲を俎上に挙げ、その裏に潜む人間ドラマを取り上げている。8曲の最初のページには、テーマとして取り上げたオペラのあらすじがそれぞれ要約されているので、仮にそのオペラを全く知らない読者であっても、本文を読み進めることができるように配慮されているのが嬉しい。本文についてもクラシック音楽の専門知識がなくても、人間ドラマとして十分に読みこなすことができる。それでは、クラシック音楽、中でもオペラに精通している人は、退屈するかというと、それとは全く逆で、改めてその大作曲家の心の奥に秘めた心情が、同書を読むことで初めて理解できることも少なくない。この本の帯には、「中野京子が紐解く、読んで語るためのオペラ入門。羨望、嫉妬、挫折、すべてが音楽になった」とある。

 中野京子氏には、角川文庫から出されている「怖い絵」「怖い絵=泣く女篇=」「怖い絵=死と乙女篇=」という3部作の著作がある。いまでは“あの「怖い絵」の作者”と言われるほど中野京子の代名詞にもなっている。これらは、題名のごとくいずれも“怖い本”なのである。もちろん絵自体が怖いということも言えるが、それよりもっとその絵の背後に隠された画家の怖ろしい人生を、あたかも刑事が犯人をじわじわと追い詰め、最後にその真相が明らかにされるといった内容が怖いのだ。一枚の怖い絵を取り上げ、その絵を文章の最初のページに掲載して、まず読者の視線を釘付けにしてしまいうという趣向だ。もうこうなれば、読者は、筆者の催眠術にでもかかったかのように、怖いお話に最後まで付き合わされてしまう。「愛と裏切りの作曲家たち」はこの「怖い絵」のオペラ版といったところか。名作「怖い絵」シリーズの初版は、朝日出版社から2007年~2009年発刊されている。ということは、改題前の「かくも罪深きオペラ」は、1999年に発刊されているので、今回の「愛と裏切りの作曲家たち」は、ひょっとすると「怖い絵」シリーズの母体になった作品なのかもしれない。

 名作「ノルマ」を作曲したベッリーニは、同時代の作曲家のドニゼッティに対し、異常とも言える徹底したライバル意識を持っていたという。「ベッリーニは、ドニゼッティの公演前日のリハーサルをロッシーニとともに見に行き、出来の悪さをせせら笑った。またも自分の勝を確信し、敵の無能をこきおろす。『あのオペラは短命。あっと言う間に幕を閉じると宣告されたのも同然です。だって今までで最悪だから。あきれたことに、これはあいつの48作目ですよ』ベッリーニのほうは、10作目だった」「ここまで圧勝しながら、だがなおベッリーニは、ドニゼッティを叩くのを止めない。後に出た新聞評が良かったことに腹をたて、『なにしろあいつときたら、パリ中の劇場や、とくに記者連中に対して、まるで道化みたいにお百度参りしていたんだから、悪く書かれるはずはない』そいう自分も、同じような工作をせっせと行っていたことは言わない」ベッリーニの葬儀を執り行ったのは、ロッシーニであった。そして、何と、葬儀で流す音楽の指揮をしたのがドニゼッティだったのだ。ドニゼッティは、ベッリーニから憎まれていたとは露知らず、心からその死を悼みつつ。そして、筆者は「墓場のベッリーニは憤慨したろう」と書く。これはやはり怖い。

 日本でもお馴染みの「蝶々夫人」を作曲したプッチーニ。「マノンレスコー」「ラ・ボエーム」「トスカ」と立て続けの成功によって、ヴェルディの後継者の地位を不動なものとしていた。つまり人生の絶頂期を迎えていたのだ。そして次の作品として日本を舞台にした「蝶々夫人」に取り組む。これは自分の最高傑作となるという予感を持ちつつ作曲に向かうが、筆は遅々として進まない。そんな折、医者に診てもらうため、運転手付きの車に乗る。帰りは夜道となった。しかし、早く帰り「蝶々夫人」を仕上げねばならなかった。運転手を急がせて、山道に差し掛かったところで、車は15メートル下の崖下に落下してしまう。なんとかプッチーニは九死に一生を得る。しかし、この時以降、プッチーニには不幸が押し寄せ始める。怪我をしたプッチーニの世話をするため純朴な若い娘ドーリアを、小間使いとして雇ったところまではよかった。しかし、妻のエルヴィーラがプッチーニとドーリアの間を怪しみ解雇してしまう。このことで妻のエルヴィーラは、最後は毒を飲んで死んでしまう。さらに、疑われた小間使いのドーリアも抗議の自殺をする。話は「蝶々夫人」さながらのストーリを辿リ始めるのだ。人生の絶頂期から一挙に人生の奈落の底に落ちたプッチーニ。この話も相当に怖い。この書には、8人の大作曲家の人間ドラマが、代表作のオペラを軸として展開する。(蔵 志津久)

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2015年2月13日

◇「名曲誕生~時代が生んだクラシック音楽~」(小宮正安著/山川出版社)


書名:名曲誕生~時代が生んだクラシック音楽~

著者:小宮正安

発行:山川出版社

目次:第一章 ルネッサンスからバロックへ ー「個」の誕生と絶対君主の君臨ー
      1 オルフェオ モンテヴェルディ作曲(1607年)
      2 怒りの日 リュリ作曲(1683年)
      3 コーヒー・カンタータ バッハ作曲(1732~1734年)
      4 フルート・ソナタ フリードリヒ二世作曲(18世紀)
  
     第二章 フランス革命ー市民階級の目覚めと伝統への反逆ー
      5 トルコ行進曲 モーツァルト作曲(1784年以前)
      6 戦時のミサ曲 ハイドン作曲(1796年)
      7 ウェリントンの勝利 ベートーヴェン作曲(1813年)
      8 幻想交響曲 ベルリオーズ作曲(1830年)
 
     第三章 王政復古ー政治的抑圧と超絶技巧への熱狂ー
      9 ラ・カンパネッラ パガニーニ作曲(作曲年不明)
     10 ピアノ協奏曲ハ長調 チェルニー作曲(1827年頃)
     11 シチリア島の夕べの祈り ヴェルディ作曲(1855年)
     第四章 ナショナリズムの高揚ー愛国心の芽生えと民族運動ー
     12 幻想的ワルツ グリンカ作曲(1856年)
     13 モルダウ スメタナ作曲(1874年)
     14 大学祝典序曲 ブラームス作曲(1880年)
  
     第五章 世界大戦ー世紀末のはなやぎと産業革命の影ー
     15 交響曲第六番 マーラー作曲(1903~1904年)
     16 ピアノのための組曲 シェーンベルク作曲(1921~1923年)
     17 ボレロ ラヴェル作曲(1928年)
  
     第六章 クラシックの終焉ーアメリカの台頭とワールド・ミュージックー
     18 ジャズ組曲第二番 ショスタコ-ヴィチ作曲(1950年代)
     19 ロビン・フッドの冒険 コルンゴルト作曲(1938年)
     20 トゥーランガリラ交響曲 メシアン作曲(1946~1948年)

 芸術であれ、技術であれ、政治であれ、その歴史的背景なくしては、真実の姿は現れてこない。しかし、その歴史的背景を後世の人々が脚色してしまい、真実とは程遠いことが伝えられることだって珍しくはない。例えば、明治維新は、薩長同盟が古い幕府政治を打ち破り、海外に開かれた新政府を樹立した、と今の人は固く信じている。ところが、事実はそう簡単な話ではないのである。幕府は、幕末の頃には、広く海外に開かれた政治を模索していたし、民主的政治体制の案も検討していた。逆に討幕派は尊皇攘夷を旗印としていたわけで、ある意味で鎖国主義者であったのだ。ところがいつの頃からは知らないが、このことがあべこべになってしまった。

 また、第二次世界大戦後、日本は奇跡の復興を遂げたということがよく喧伝されるが、これだってよく考えてみると、戦争で失われたGDPが元に戻ったにすぎなかった、という見方もできる。だから、戦後の日本が良くて、今の日本は閉塞感に満ちている、というような論法には要注意だ。こよほどさように、歴史の真実を見極めることは難しい。ここに時代背景をよく調べる必要性が出てくる。絵画については、歴史的背景、すなわち描かれた時代の政治や歴史とは別のものであると考える方が無理がある。抽象的絵画を除き、絵の題材は、その時々の政治や歴史を描き込んでいるからだ。ところが、音楽となると、政治や歴史との関係がどうも靄がかかり、分かりにくくなる。そんなこともあり、これまで真正面からクラシック音楽とその歴史的背景を論じた書籍は、あまり多くはなかったのが現状である。

 そんな空白を埋めてくれるのが、「名曲誕生~時代が生んだクラシック音楽~」(小宮正安著/山川出版社)である。全体が時代順に6章に分けられ、全部で20曲のクラシック音楽の名曲が、その時代背景の下、どのような経緯で作曲されたかが詳しく分析・紹介されている。これだけ読むと、何かクラシック音楽の学術書を思い浮かべるが、この書の内容は、その曲を何となく聴いたことがある程度の読者でも、充分に気軽に読むことができるように配慮されている。このため、全20曲を聴いたことがない人でも、歴史書として読み進めることができるのだ。また、そんな読者を想定して、この書のテーマとなっている20曲のうち、14曲が収められたCDが付録として付けられている。この書のあとがきで、著者の小宮正安氏は「・・・西洋クラシック音楽からヨーロッパの歴史を改めて眺めるという作業にも、それなりの意味がある。またそのような視点から歴史と音楽を捉えることで、作品やそれらを生み出した作曲家がいかに時代の申し子であり、さらには彼らがどのように時代に影響を与えられたのかというテーマを主軸に、書かれた・・・」と同書の狙いについて書いている。

 クラシック音楽とは、すなわち西洋音楽であり、我々東洋人としては、どうしても解説書がほしくなる。しかもその内容は、音楽学の分析でなく、また、曲そのものの感想でもない、歴史的背景から分析した書籍がほしい読者には、同書は打って付けだ。例えば、第二章 フランス革命ー市民階級の目覚めと伝統への反逆ーの中で、この書の7番目の曲として「ウェリントンの勝利 ベートーヴェン作曲(1813年)」が出てくる。「こんな曲をベートーヴェンが作曲したなんて知らない」という読者もいれば、「曲名ぐらいは知っているが、聴いたことはない」という読者もいるだろう。この曲は、ベートーヴェンの生前には人気曲(名曲)であったにもかかわらず、死後、徐々に「駄作」とのレッテルを貼られ、今では演奏される機会も少ない。ベートーヴェンを神様と思っている人にとって、ベートーヴェンに「駄作」があったこと自体が驚きでだ。しかし、そんな「駄作」が作曲時には何故人気曲(名曲)だったのか?それを解くカギが「ウェリントンの勝利」というタイトルにある。ウェリントン侯爵アーサー・ウェルズリー率いるイギリス軍が、ナポレオンの兄が率いるフランス軍を撃破した時の話で、この時の勝利の演奏会で演奏されたのがこの曲だったのだ。聴衆は音楽そのものより、勝利の美酒に酔った演奏会で聴いたから、名曲に聴こえた?のかもしれない。この書では、全部で20曲について、このような作曲時の時代背景が詳しく、しかも平易に分析・紹介されている(蔵 志津久)

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