クラシック音楽 ブックレビュー


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2014年4月08日

◇「グスタフ・マーラー~現代音楽への道~」(柴田南雄著/岩波書店)


書名:グスタフ・マーラー~現代音楽への道~

著者:柴田南雄

発行:岩波書店(岩波現代文庫)

目次:第1部 グスタフ・マーラー~現代音楽への道~(出典:岩波書店、1984年10月)

    はじめに―われわれとマーラー
     1 ボヘミアからヴィーンへ
     2 新しい世界への出発
     3 成就と崩壊の始まり
     4 背後の世界の作品
     5 開かれた終末
     あとがき

    第2部 マーラー小論

     交響曲第1番ニ長調「巨人」(出典:青土社、1986年9月)
      交響曲第5番嬰ハ短調 (同)
     マーラー・ブームが意味するもの―クラシックの現在(出典:岩波書店、1990年10月)

 「グスタフ・マーラー~現代音楽への道~」は、大きく分けて、第1部グスタフ・マーラー、それに第2部マーラー小論の2つから構成されている。第1部は,岩波新書「グスタフ・マーラー現代音楽への道」として岩波書店より1984年10月に刊行されたもので、2010年に新たに、第2部マーラー小論と合わせて、岩波現代文庫として発刊された。内容は、交響曲 第1番~第10番、それに「大地の歌」についての著者の解説が中心となって構成されている。つまり、マーラーが作曲した作品を順番に辿ることによって、マーラー像を浮かび上がらせるという内容だ。さらに、当時の日本のマーラーの交響曲の演奏会の情景も織り込まれていることで、日本におけるマーラーの交響曲演奏史を知る上では、貴重な証言にもなっている。マーラーと言うと、直ぐにブルックナーとかワーグナーを思い描くが、これらの中にあって最近においては、マーラーの評価は高まっているのではないかと思う。それは、現代人が漠然と感じている不安とか恐れ、さらにそこから逃れようと葛藤する様が、マーラーの作品そのものに内蔵されているためだからであろう。ブルックナーは、宗教的色彩が濃く、またワーグナーは、最近現代的解釈がなされているとしても、基本はギリシャ悲劇が題材だ。それに対してマーラーの作品は、宗教色は薄いし、無調音楽など当時新たに勃興した現代音楽的要素も作品にいち早く取り入れ、新しいクラシック音楽としての感覚が共感を呼ぶのであろう。

 著者の柴田南雄(1916年ー1996年)は、作曲家と同時に音楽評論家、音楽学者として多くの著書を残している。また、ラジオなどで音楽解説を幅広く手掛けていた。音楽は独自に学んでいたようではあるが、1936年に東京帝国大学理学部植物学科に入学し、さらに大学院で植物学を研究、東京科学博物館植物学部に勤務したというから、人生のスタートは植物学者だったのだ。その後一転し、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。卒業後、音楽協会などの職員を経て、子供のための音楽教室(桐朋学園大学音楽科の前身)の設立に参加している。その後、本格的に音楽家の道に進み、東京藝術大学の教授も務めた。そんな経歴を持つ著者だけに、「グスタフ・マーラー~現代音楽への道~」は、内容も単なる楽曲解説の範疇を越え、文明評論的意味合いを含んだものに仕上がっている。「近年のマーラー復興は結局のところ、今日の世相とマーラーの時代の世相との間になんらかの共通点が存在するからではないのか。・・・世紀末的な、あるいは戦争前夜の危機感、その予感といったものを人々は無意識にせよ、マーラーの音楽から感じ取っているのではあるまいか」。これは、今から30年前の柴田南雄の文章であるが、今でもそのまま通用しそうだ。

 今から30年も前の著作であるから、当時の日本における演奏会風景の紹介にも興味が引かれる。「わたくしのマーラーの『第8交響曲』の体験は、まず本邦初演の、1949年12月の日本交響楽団(今のN響)の定期演奏会であった。指揮の山田一雄の獅子奮迅の勢いというか、阿修羅のごとき活躍というか、あの熱演、激演は普通のものではなかった。・・・もう一つ忘れられない『第8交響曲』の演奏と言えば、早稲田大学創立100周年記念を機に開かれた、同大学のオーケストラ、同大学学生の合唱団に東京の諸大学の合唱団が加わっての公演(1982年10月24日)である。指揮者の岩城宏之のほかはオール・アマチュアであった」。当時のわが国のクラシック音楽の状況は、今より、若者が多く参加していたように思う。特に、マーラーには、どことなく現代音楽的な香りがして、自分たちが、これからの新しいクラシック音楽界をつくろうという熱き思いが充満していたのではなかろうか。現在、現代音楽は、一般大衆からは離れた存在となってしまっている。現代音楽の理解者でもあった柴田南雄が、今もし健在であったなら、現在の日本のクラシック音楽界をどのように評論するのであろうか。

 同書の第2部マーラー小論は、3つの小文が掲載されている。これらは第1部の要約版的な意味合いをもつもので、手軽に柴田南雄のマーラー観を知りたいのであれば、この第2部から先に読むのも一方法であろう。「問い:マーラーという人の作風は、当時として、進歩的だったんでしょうか。柴田:進歩的ですね。しかも一作ごとに絶えず新しい構成を考えています。ただ、調性的な線に固執したこと、リズムや拍子が定型的なことなど、保守的な面もありますけれども」 「問い:シューベルトとマーラーは、作風の上でかなり似ていると思いますが。柴田:それはもう、いわゆるヴィーン風の感じがじつに共通してますよ。レートリヒという学者が、交響曲第1番の第3楽章のテーマがシューベルトの第9番の第4楽章、第2主題と関係があると言っているらしいのですが、あちこちに似た点はたしかに出て来ますね。まあ、やはり歌謡風のモチーフをよく用いる点が第一でしょうね。それからいわゆるレンドラー舞曲、オーストリアの田舎の踊りですね。その感じは区別がつかないくらいそっくりですね」「問い:第1番から第4番まで一つの一貫した発展の方向というのは、技法的な問題についておっしゃっているのでしょうか?柴田:一言で言えば、主題の解体と副次的なモチーフの数をだんだん増やしていくという傾向ですが、それが第5番では一変して、ある旋律パターンの有機的なメタモルフォーゼという方法がとられるようになり、これがそれ以後のシンフォニーの中に受け継がれていく。この変化は、言ってみれば第4番までのベートーヴェン=ワーグナー的世界から、第5番でシェーンベルク的な世界への転換だと思うのです」。柴田南雄は、クラシック音楽は世界音楽へと発展的に解消されることを予言していた。そして、その転換点に当たるのがマーラーなのだ、と言う。(蔵 志津久)

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