クラシック音楽 ブックレビュー


2013年11月04日

◇「世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ―エル・システマの奇跡―」(トリシア・タンストール著/原賀真紀子訳/東洋経済新報社)

書名:世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ ―エル・システマの奇跡―

著者:トリシア・タンストール

訳者:原賀真紀子

発行:東洋経済新報社

目次:プロローグ:ドゥダメルの衝撃    
    第1章:バーンスタインの再来    
    第2章:エル・システマの躍進    
    第3章:革命家アブレウ    
    第4章:踊るオーケストラ    
    第5章:音楽が大陸をつなぐ    
    第6章:才能を開花させる子どもたち    
    第7章:広がる教育プログラム    
    第8章:市民音楽家ドゥダメル
 

 クラシック音楽は、西洋の宗教音楽に始まり、貴族の音楽を経て、市民の音楽へと発展を遂げ、そして現代音楽へと行き着いた。これからクラシック音楽は何処に向かおうとしているのであろうか。残念ながら、その答えは、まだ見えてきていないようである。それどころか、「これまでクラシック音楽は、あらゆる可能性を試み、発展してきたが、これ以上の広がりは期待しにくい」と指摘する向きもいることも事実だ。今から少し前の時代、いわゆる現代音楽が脚光を浴びた時期は、「これから新しいクラシック音楽が切り開かれて行くに違いない」と多くの人が考えていた。当時、「これからはバッハやベートーヴェンは過去の時代の音楽となり、現代音楽がそれに取って代わる」と断言していた人もいたぐらいだ。ところが、その現代音楽は期待に反して、大きな広がりを見せることはなく、足踏み状態にあると言っても過言ではないであろう。つまり、クラシック音楽は、袋小路に入り込んでしまったというのが現実の姿だと私は思う。逆に、過去のクラシック音楽への再評価がなされ、その結果、古楽器演奏のブームなどが起きたりしている。これはこれで、何も問題はないのであるが、何か釈然としないことも確かだ。

 日本の歌舞伎は、国からの援助なくして公演を行っている一方、聞くところによるとヨーロッパの歌劇場は国からの援助なくしては成り立っていないのが現状であるらしい。これは、日本において、ヨーロッパのオペラ公演が目白押しに行われていることを見れば、何となく理解できる。日本人は、歌舞伎は古くて、オペラは新しいと思っているかもしれないが、必ずしもそうとも言えない。芸術においてもその経済的基盤が、その時代の評価に繋がるものだ。そんな中、日本のクラシック音楽界も手をこまねいているわけではない。オーケストラが子供向けのコンサートを企画したり、演奏家が安い料金で演奏会を開催したりと、いろいろと努力はしている。しかし、現状ではどうも根本的な解決策には至っていないようにも思われる。これはクラシック音楽界の体質と密接な関係がある。多くの場合、クラシック音楽で身を立てようとすると、音楽大学に入り、卒業後は欧米に留学し、有名コンクールで1位にでもならなければ、将来は明るくない。つまり、現在のクラシック音楽の道を進もうとすると、経済的にかなり恵まれた人しか道は開かれていないのである。だから、今、クラシック音楽のコンクールで1位を獲っても、それは金銭的に恵まれた人の中での1位であって、必ずしも全才能の中の1位を意味するものではない、というのが私の持論である。

 そんな中、現在、世界のクラシック音楽界で注目を浴びているのが、ベネズエラにおいてホセ・アントニオ・アブレウ氏が1975年に始めた音楽教育活動「エル・システマ」である。そして、この「エル・システマ」の全貌をくまなく紹介しているのが今回の書籍「世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ―エル・システマの奇跡―(トリシア・タンストール著/原賀真紀子訳/東洋経済新報社)」なのである。ベネズエラは、正式な国名をベネズエラ・ボリバル共和国と言い、南アメリカ北部に位置する連邦共和制社会主義国家で、首都はカラカス、人口は2858万人。まず、驚かされるのが、クラシック音楽が何故ベネズエラなのか、という点。これまでクラシック音楽というと本場のヨーロッパあるいは北米、それに最近ではアジアが台頭してきているが、南米のベネズエラとの関係が結び付かない。実は、ここにクラシック音楽の盲点があったのだ。これまで経済的な豊かさとクラシック音楽は結び付いてきたが、貧困層とは縁のない音楽だと見なされてきた。それを180度がらりと変え、アブレウは「貧困層だからこそクラシック音楽教育が必要だ」と主張し、始めたのが音楽教育活動「エル・システマ」なのである。これは世界中誰も考えもしなかった発想である。しかし、そんなことホントにできるのか、という疑問が出てくると思うが、今では40万人の子供が300以上の教室に通っているというから成功しているのだ。しかも、世界に通用する才能が育ちつつある。それは、今世界中で絶賛を浴びている10代~20代の青少年からなるシモン・ボリバル交響楽団であり、次期ベルリン・フィルの音楽監督就任の呼び声も高い、若き指揮者のグスターボ・ドゥダメルなのである。

 貧困層と言ってもどれほどのものなのか。少々長くなるが同書から拾ってみよう。「痩せっぽちで用心深い目をした9歳のエステバン君は、カラカス市内の貧困地区で暮らしている。ここは掘立小屋のような家が丘の斜面にひしめき合っている。水が出ないこともあれば、電気のつかないこともある。どちらもダメ、という日もある。夜、怒鳴り声やエンジンをふかす音が聞こえてくると、妹は怖がって眠れない。兄は15歳で学校に行かなくなり、家にも寄り付かなくなった。ギャングに入ったのだ。父親は刑務所で服役中。最後に会ったのはいつだったか覚えていない」。今の日本からすると想像を絶する貧困さだ。日本であったなら、こんな貧困家庭では音楽なんかとんでもないということになろう。「エステバン君は、学校で先生から『お前はばかだ』と言われた。でも、1年前からシステマでヴァイオリンを習い始めて、自分は愚かでないことを知った。今ではモーツァルトやヴィヴァルディの曲を弦楽アンサンブルで弾いている」。最初に、クラシック音楽界が今袋小路に入っている、と書いたが、袋小路を出るヒントをこの「エル・システマ」は教えてくれている。つまり、クラシック音楽を、偏見を持たずに、もっと多くの人に参加してもらうことだ。「エル・システマ」は既に世界中に広がりを見せ、日本でも「エル・システマジャパン」が設立され活動を行っている。「エル・システマ」の活動で大切なのは、クラシック音楽を“楽しむ”ということ。「エル・システマ」では、演奏しながら踊り出すこともあるという。日本のクラシック音楽のコンサート会場でも、会場が盛り上がれば演奏者は踊っても構わないと私は思う。これからの時代には、楽しい演奏会づくりが欠かすことができない要素となろう。(蔵 志津久)

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