2010年12月30日
ベートーベン:交響曲全集
演奏:アンドレ・クリュイタンス指揮
管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
CD:東芝EMI CC25-3745-47
ドイツ人でない指揮者がドイツ音楽を演奏した場合の成功例、失敗例いろいろあるが、このアンドレ・クリュイタンスのベートーベン交響曲全集は成功例の典型的なものだろう。我々がお馴染みのベートーベン像は“意思の人”とか“理想主義者”とかいった神様みたいな存在を思い描くが、クリュイタンスはそんなベートーベン像はくそ食らえとでも言いたいように、純粋に音楽としてのベートーベン像を描ききる。そこには何の誇張もなければ、独善もない。ただ、自然な音楽が流れるだけだ。実はこれができるということは、裸のベートーベンのそのものを表現しきっているということを意味する。よく最高の演技は「演技せずただ自然に振舞うことだ」といわれるが、役者は何十年の修行を積まねばこの境地には至らない。クリュイタンスのベートベンを聴くと「指揮をせずただ自然に演奏する」といった高みに達していると言わざるをえない。ドイツ系の指揮者には思いもつかない境地であることは間違いない。
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2010年12月30日
ブラームス:交響曲第1~4番
悲劇的序曲/ハイドンの主題による変奏曲
指揮:ルドルフ・ケンペ
管弦楽:ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
CD:TESTAMENT(EMI Records) SBT 3054
ドイツ人の指揮者のルドルフ・ケンペのこのCDは、最初はあまり印象に残ることはないが、何回も聴くうちにその真価がじわじわと心に沁みてきて、最後にはケンペの虜になってしまうという、独特の魅力が込められた隠れたる名盤なのである。通常指揮者はその指揮ぶりが、フルトヴェングラーみたいだとか(あまりいないが)、ワルターに似ているだとか、まるでトスカニーニみたいなど、と過去の巨匠たちの指揮に似ているといった捉え方をされることが多い。ところがケンペはどの巨匠とも異なり、独自の世界を展開する。そこが新鮮に映るし、魅力ともなっている。強いて挙げればシューリヒトに近いのかもしれない。しかしよく聴くと、シューリヒトは楽団員と一体化して自分の世界に引きずり込むという感じがするのに対し、ケンペはあくまで楽団員の自発性に期待し団員各自の能力を最大限に発揮させるようにもっていく。
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2010年12月30日
ブラームス:交響曲第1番
指揮:管弦楽:バイエルン国立管弦楽団
CD:DISQUES REFRAIN DR920035
ヘルマン・アーベントロートは、ケルン市の音楽監督をはじめ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団常任指揮者(1934年-1945年)、ライプツィヒ放送交響楽団首席指揮者(1949年-1956年)、ベルリン放送交響楽団首席指揮者(1953年-1956年)を務めた経歴を見れば、大物指揮者であったことが分ろう。 過去に彼が務めた前任者や後任者の中に、ワルターやフルトヴェングラーなどの名前が見受けられることからしても、このことが裏付けられる。ただ、第2次世界大戦後は、東ドイツに留まったためか、わが国ではフルトヴェングラーやワルターほどには知名度は高くはない。しかし、彼の葬儀は東ドイツでは国葬が行われたというから、やはり凄い指揮であったのだ。
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2010年12月30日
シューベルト:交響曲第8番「未完成」
ベートーベン:交響曲第2番
指揮:エーリッヒ・クライバー
管弦楽:ベルリンフィルハーモニー管弦楽団(シューベルト)
ベルギー国立管弦楽団(ベートーベン)
CD:独TELDEC CLASSICS INTERNATIONAL 9031-76436-2
名指揮者エーリッヒ・クライバーのこのCDは、シューベルトの交響曲第8番「未完成」が1935年1月28日、ベートーベンの交響曲第2番が1938年1月31日と、今から70年以上前の録音にもかかわらず、いずれの音も豊穣で現在でも十分に鑑賞に耐えうるのには驚きだ。さすがに現在の録音のように、オーケストラの楽器の一つ一つ聴き分けられることはできないものの、オーケストラの全体の響きに訴える力があり、音にも安定感がある。オーケストラの場合は特に、楽器一つ一つの響きより、全体が醸し出す音の方が大切なので、このCDは今でも現役盤で十分に通用するといってもいいほどだ。そして、肝心の演奏の方も、指揮者のエーリッヒ・クライバーは、これら2曲の代表的名盤の一つといってもおかしくないほどの名指揮ぶりを、我々に披露してくれる。シューベルトの「未完成」は、誠に粋で曲全体が息づいているとでも言ったらよいだろうか。“小股の切れ上がったいい女”という表現があるが、クライバーの「未完成」は正にそんな感じがするのだ。決してべたべたしない、軽快であるがただ軽いのではない、優美さを兼ね備えた軽さなのだから、その魅力に触れるともう一度聴きかえしたくなる。
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2010年12月30日
ベートーベン:交響曲第6番“田園”
ボロディン:交響曲第2番
ディミトリ・ミトロプーロス指揮
管弦楽:ミネアポリス交響楽団(ベートーベン)/ニューヨークフィル(ボロディン)
CD:伊IRONNEEDLE
ディミトリ・ミトロプーロスはアメリカで活躍した名指揮者だ。このCDは1940年に録音されたもので、音質の状態は万全ではないが、ミトロプーロスの偉大さの片鱗を窺い知ることができる。その指揮ぶりは躍動感あふれるもので、CDを聴いてるだけでも生き生きとした指揮ぶりに惚れ惚れする。フリッチャイに似たリズム感ではあるが、一方では、あたかもワルターのように雄大な巨匠風の指揮ぶりも見せ付けて、聴いていて飽きが来ない。ベートーベンの“田園”をこんなに劇的に指揮した録音は聴いたことがない。全曲これミトロプーロス節といった趣であるが、ぜんぜん嫌味がないところがさすがと感じさせる。
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2010年12月30日
~新ムラヴィンスキーの芸術~<ライブ録音盤>
モーツアルト:交響曲第39番
グラゾノフ:組曲「ライモンダ」
ワーグナー:歌劇「ローエングリン」から第3幕への前奏曲
指揮:エフゲニー・ムラヴィンスキー
管弦楽:レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
演奏はというと、どれを取っても曲の本質を、一切の贅肉をそぎ落とし、しかも少しも、ぎすぎすしたところがなく、しかもある意味では豊穣な香りが立ち上る感覚を覚えるところが、ムラヴィンスキーの指揮の凄いところだ。例えば、ムラヴィンスキー同様、トスカニーニも余計な贅肉をそぎ落とした指揮をするのだが、トスカニーニは筋肉質の緊張感が表面に出てくる。それに対し、ムラヴィンスキーは、豊かな詩情を残しながら、しかも演奏の本質は筋肉質で無駄はない。言ってみればトスカニーニとワルターとを足して二で割ったような印象を持つ。足してニで割ると言っても、決して2者の中間という意味でなく、あくまで独自の主張を持った曲づくりがその中心にある巨匠であることが、このCDを聴くとよく分る。
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2010年12月29日
ベートーベン:交響曲全集/序曲集
演奏:フランツ・コンビチュニー指揮/ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団
CD:独ETERNA 0020 005
コンビチュニーは玄人受けする指揮者だ。どちらかといえば職人芸に近い。ただ、職人芸といってもあくまで一流の職人であって、そんじょそこらの職人とは違う。フルトベングラーがオーケストラをぐいぐい引っ張る激情家、カラヤンが一部のすきもない合理主義者、チェビリダッケがオケの持つ能力を引っ張り出す策士家なのに対し、コンビチュニーはあくまで楽譜に忠実な音づくりをする名人といえるだろう。その昔、著名な音楽評論家の山根銀二氏がラジオで繰り返し紹介していたのが、コンビチュニーであった。音楽評論家としては最も信頼の置ける指揮者といえるのだろう。コンビチュニーと聞くと、すぐにラジオの音楽番組と山根銀二氏の名解説を思い出してしまい、懐かしさがこみ上げてくる。
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2010年12月29日
モーツアルト:交響曲第29番
ベートーベン:交響曲第7番
シューベルト:交響曲第8番「未完成」
フランク:交響曲
指揮:グィド・カンテルリ
管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団/NBC交響楽団(フランク)
CD:EMI CLASSICS CZS 5 68217 2
カンテルリの指揮のスタイルは、メンデルスゾーンがその曲が持つ姿を客観的な立場で指揮をして以来の伝統的指揮法によっている。当時流行ったヨーロッパにおける新即物主義がこの指揮法を後押ししたこともあって、現在まで連綿と続いているのである。この客観的指揮法のドンがトスカニーニとするなら、主観的(ロマン的)指揮法のドンはフルトヴェングラーなのである。このCDを聴くと、カンテルリはドン・トスカニーニの指揮ぶりにもっとも近い指揮者といわれている以上に、ほかの指揮者にない何物かを備えていることが聴き取れる。曲想を捻じ曲げないで指揮することは間違いないのではあるが、ただそれだけではなんとも退屈な演奏に終わってしまう。カンテルリの凄いところは、オーケストラが発する音そのものが実に生き生きと輝くのだ。
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2010年12月29日
モーツアルト:交響曲第39番/第40番/第41番
演奏:指揮=ハンス・クナッパーツブッシュ
ベルリン・オペラ管弦楽団/ウイーンフィルハーモニー管弦楽団
CD:PREISERRECORDS 90951
マエストロの東の横綱がフルトベングラーなら、西の横綱がクナッパーツブッシュという位置付けだ。フルトベングラーの指揮は、“振ると面食らう”と揶揄されたように、茫漠とした感情の嵐が吹きすさむダイナミックな演奏が身上だ。それに対しクナッパーツブッシュの指揮はスケールの大きさではフルトベングラーさえも上回り、現在まで比肩できる指揮者はいないほどだ。ただ、クナッパーツブッシュは感情に流されることなく、客観的に曲と接している。この辺が両マエストロの違いだ。
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2010年12月29日
シューベルト:交響曲第7番「未完成」
交響曲第(8)9番「ザ・グレート」
指揮:ウィレム・メンゲルベルク
管弦楽団:アムステルダム・コンセトヘボウ管弦楽団
CD:phono-museum MENGELBERG EDITION Vol.1
このCDに収められたシューベルトの2つの交響曲は、1942年11月にコンセルトヘボウで録音された。ここでのメンゲルベルクは、「未完成」においては、男性的な指揮ぶりに徹しており、「未完成」の持つ図り知れない生命力を遺憾なく発揮しているのが印象的だ。現代の指揮者は「未完成」を振るとき、余りにもディテールに拘りすぎ、美しい「未完成」を描き過ぎるではないではなかろうか。これは、リスナーがそのようなもの要求するから、自然にそうなっただけと私は思っている。リスナーはただ受身で聴いていたのではダメなのだ。“「未完成」=美しい”だけではいけないのだ。男性的な力強さと生命力を持ったシンフォニーが「未完成」の真の姿であると思う。70年近く前のメンゲベルクのこの指揮ぶりは、このことをはっきりと示しており、その存在意義は今でも少しも薄れていないと私は思う。その意味でこのCDは歴史的名盤というより、私にとっては現役盤と肩を並べる位置づけである。一方、「ザ・グレート」の方は、「未完成」ほど力強くはないが、それでも雄大なシューベルト像を描き出そうとしている点は、「未完成」と同じである。
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