クラシック音楽 日本の歌


2014年4月22日

♪ 天才歌手・江利チエミを偲んで


 BS朝日に「昭和偉人伝」という番組がある。5月7日の放送は、江利チエミが取り上げられていた。12歳で進駐軍のキャンプでステージに立ち、喝采を浴び、そして15歳で発表したデビュー曲「テネシー・ワルツ」が大ヒット。まだ、戦争の傷が癒えない日本人の心をつかんだのだ。当時、江利チエミは“天才少女”と呼ばれていた。

そして、その後の活躍は素晴らしい。美空ひばり、雪村いづみとの三人娘、テレビのサザエさん、日本初のブロードウェイミュージカル「マイ・フェア・レディ」、そして全米公演と、トップスターとしての地位を盤石なものして行く。英語の歌詞を日本語で歌い、今のJ‐POPの元祖ともいえる存在であった。さらに私生活でも俳優・高倉健と結婚し、このまま夢のようなシンデレラガールの道を驀進すると、誰もが思っていた。

ところが、一瞬にして人生が暗転する。自宅の火事、家族の死、身内の裏切りで背負わされた多額の借金、そのために高倉健とも別れなければならなくなったのだ。借金を前途ある俳優の高倉健に負わせるわけにはいかないと、離婚に踏み切ったことが番組で明らかにされる。高倉健は、今でも毎年、江利チエミの命日には、必ず線香を送り届けているという。

多額の借金を返済するため、それまでは絶対歌わなかった、酒場でも歌うようになって行く。自分でセールスもやり始める。もうなりふりなどかまっていられなかったのだろう。そんな切羽詰まった状況でも江利チエミはトレードマークの笑顔を忘れることはなかったと、番組の出演者は口を揃えて言っていた。人間の真価は、絶体絶命の場面を見れば分かるという。江利チエミは、人間的にも優れていたのであろう。

そして、ようやく借金も返済し、これから再起という、正にその時、突然の死を迎えることになる。自宅マンションで、誰にもみとられずにこの世を去ってしまった。享年45歳。

BS朝日の「昭和偉人伝」では、1980年に行われた「江利チエミ・30thアニバーサリー・リサイタル」の映像が流されたが、そのもようはCDでも聴くことができる。ここでは、収録曲目を掲載して、天才歌手・江利チエミを偲ぶこととしたい。(蔵 志津久)

<チエミ・30thアニバーサリー・リサイタル>

歌:江利チエミ

演奏:廉信夫とシャープス・アンド・フラッツ

コーラス:中野ブラザース

CD:キングレコード KICX 388

家へおいでよ
テネシー・ワルツ
シャン・ハイ
ガイ・イズ・ア・ガイ
ビビデイ・バビディ・ブー
チャタヌガ・シュー・シャイン・ボーイ
オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート
サイド・バイ・サイド
裏町のおてんば娘
ウェディング・ベルが盗まれた
ババルー
バイア・コン・ディオス
サイン・ポスト
テ・キエロ・デ・ヒステ
ムーチョ・ムーチョ・ムーチョ
チャチャチャはすばらしい
パパ・ラブス・マンボ
アンナ
スコキアン
ジャンバラヤ
ウスクダラ
シシュ・カバブ
トゥー・ヤング
ダニ一・ボ-イ
セ・シ・ボン
霧のロンドンブリッジ
想い出のサンフランシスコ
君は我が運命
スワニー
キャリオカ
フライング・ホーム
チェンジンダ・パートナー
新相馬節
木遣りくずし
おてもやん
さのさ
当たりまえのことさ(「アニーよ銃をとれ」より)
男は嫌いよ(「キス・ミ一・ケイト」より)
素敵じゃないの(「マイ・フェア・レディ一」より)
踊りあかそう(「マイ・フェア・レディ一」より)
オー・ストリッパー
新妻に捧げる歌
酒場にて
恋の手ざわり
テネシー・ワルツ
ショー程素敵な商売はない
ライムライト

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2014年4月21日

♪ マッカーサーが日本にいた頃の日本の歌は?


 2014年の春になって急に“マッカーサー”の話題が日本のマスコミを賑わせた。

 アメリカの軍人であり陸軍元帥まで上り詰めたダグラス・マッカーサー(1880年―1964年)は、第二次世界大戦後に日本を占領した際の連合国軍の最高司令官であった。マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に神奈川県の厚木海軍飛行場に降り立った(上のCDジャケットの写真)。その後、連合国軍が接収した皇居前の第一生命館内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官として日本占領政策に当たったのだ。

 一つ目の話題は、東京・新橋―虎ノ門間(1.4㎞)の“新虎通り”(俗称:マッカーサー道路)が2014年3月29日に開通したこと。車はトンネル内を走り、地上部は最大幅13mの歩道にオープンカフェが立ち並ぶことになる。東京都では、今後、パリのシャンゼリゼ通りのような新名所を目指すと言う。同区間は、1946年に都市計画が決定されたが、住民の立ち退きが進まず、完成まで68年かかった。何故、ここが「マッカーサー道路」と呼ばれるかというと、連合軍司令部(GHQ)が、虎の門の米国大使館から東京湾の竹芝桟橋までの軍用道路整備を求めたという。このことから虎の門から新橋までの区間は“マッカーサー道路”と呼ばれてきた。

 二つ目の話題は、2014年4月に、高知の農村に住んでいた男性が終戦直後、日本占領を率いていたマッカーサー元帥に送ったはがきが、約65年ぶりに男性の家族の元に戻ったこと。このはがきは、米国のネットオークションサイトで、写真収集家の衣川太一さんが発見。家族の元へはがきを返そうと思いたち実現したという。終戦直後の日本人は、不安で多くの人がマッカーサーに手紙を送ったようだ。

 三つ目の話題は、戦争の放棄を定めた日本国憲法9条のノーベル平和賞の推薦を、2014年4月にノルウェー・ノーベル委員会が受理したということ。最初の発案者は神奈川県座間市の主婦鷹巣直美さんで、その取り組みに共感の輪が広がり実現したもの。受賞者は人物か団体のみで憲法は受賞できない。このため受賞者は「日本国民」とした。因みに、2012年のノーベル平和賞は231件の推薦の中から欧州連合(EU)が受賞している。9条を含む日本国憲法は、1947年(昭和22年)5月3日に施行されたが、これは、マッカーサーが連合国軍最高司令官として日本占領政策に当たっていた時期だ。

 マッカーサーが連合国軍最高司令官として日本いたのは、1945年~1951年だ。今から60年以上前ことであり、そろそろ歴史の彼方へと消え去りつつある。そこで、歌で当時を振り返りたいと思い、CDラックを物色していたら、「戦後50周年記念企画 歌は世につれ~リンゴの唄から~」(日本コロムビア COCA-12491)が出て来た。このCDに収録されている曲名、歌手は次の通り。(蔵 志津久)

リンゴの唄(並木路子、霧島昇)
みかんの花咲く丘(川田正子)
里の秋(川田正子)
夜のプラットホーム(二葉あき子)
シベリヤ・エレジー(伊藤久男)
ハバロフスク小唄(近江俊郎、中村新造)
湯の町エレジー(近江俊郎)
三百六十五夜(霧島昇、桧原操)
長崎の鐘(藤山一郎)
イヨマンテの夜(伊藤久男)
悲しき竹笛(奈良光枝、近江俊郎)
夢淡き東京(藤山一郎)
愛の灯かげ(近江俊郎、奈良光枝)
青い山脈(藤山一郎、奈良光枝)
とんがり帽子(川田正子)
ぼくは特急の機関士で(東海道の巻)(三木鶏郎、丹下キヨ子、森繁久弥)
君の名は(織井茂子)
黒百合の歌(織井茂子)
朝はどこから(安西愛子、岡本敦郎)
黒いパイプ(二葉あき子、近江俊郎)
山小舎の灯(近江俊郎)
さくら貝の歌(辻輝子)
白い花の咲く頃(岡本郭郎)
あざみの歌(伊藤久男)
森の水車(並木路子)
愛のスウィング(池真理子)
東京ブギウギ(笠置シヅ子)
別れのタンゴ(高峰三枝子)
水色のワルツ(二葉あき子)
ボタンとリボン(池真理子)
懐しのブルース(高峰三枝子)
赤い靴のタンゴ(奈良光枝)

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2014年1月02日

♪ 城 達也の語りと最高のポピュラー音楽を収録したCDアルバム「JET STREAM―OVER THE NIGHT SKY―」に嵌る


 “ジャンボ”の愛称で親しまれてきた大型旅客機「ボーイング747」が、2014年3月末で、日本の旅客航空機会社から姿を消すことになっている(貨物機としては継続)。退役する“ジャンボ”は、1960年代、ボーイング社が、当初輸送機用に開発したものを、航空旅客が急増したため、旅客用に転用した機種。その当時の飛行機はというと、客席が150人程度だったのに対し、“ジャンボ”は500人と圧倒的な巨大さを誇っていた。しかも初の2階建てということでも話題を集めたものだ。当時、日本はちょうど高度経済成長期を迎え、世界を駆け巡るビジネスマンや、当時は夢であった海外旅行にと、“ジャンボ”は多くの日本人に利用されたのである。

そんな、皆から愛された“ジャンボ”のことを考えていたら、今でも放送されているが、FM-TOKYOの深夜の音楽番組「JET STREAM(ジェットストリーム)」での城 達也(1931年―1995年)の名パーソナリティぶりを、自分の青春とも重なって、懐かしくも思い起こした。「JET STREAM」は、1967年、FM放送の開始とともにスタートした番組で、初代パーソナリティーを城 達也が務めることとなったが、“機長”としての役柄を全うするため、テレビ出演を一切しなくなったほどの打ち込みようだったそうだ。番組は何時も、城 達也の「遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、・・・」で始まる。

城 達也のあの名調子も、遥かかなた過ぎ去ってもう聴くこともできないかと、諦めかけていた時、CDアルバム「JET STREAMーOVER THE NIGHT SKYー」(第1集:CD7枚/第2集:CD7枚、企画制作=日本クラウン/ユニバーサル ミュージック、発行=ユーキャン)をがあることを知り、早速購入した。“ジャンボ”のジェットの迫力満点の音の後、城 達也の例の名調子「遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、・・・」が始まると、一挙に30年前から40年前へとタイムスリップしたかのような感覚に襲われる。以後私は、一夜、一枚づつ聴いて、丁度2週間で全てを聴き終えるというサイクルに今嵌ってしまっている。

それにしても、当時のポピュラー音楽のレベルの高さには心底から感心させられることしきりである。フランク・プゥルセル・グランド・オーケストラの「ミスター・ロンリー」に始まり、ロバート・マックスウェル楽団の「ひき潮」、ポール・モーリア・オーケストラの「そよ風の誘惑」、マントヴァーニ・オーケストラの「アルフィー」、アーサー・フィードラー指揮ボストン・ポップス・オーケストラの「トップ・オブ・ザ・ワールド」などなど、名演奏は、もう数え上げたらきりがないほど。そして、最後にまた城 達也の名調子が始まる。「夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは遠ざかるにつれ、次第に星のまたたきと区別がつかなくなります。・・・」。(蔵 志津久)

「JET STREAM-OVER THE NIGHT SKY-」は、全部で14集(CD14枚)あるが、ここでは第1集の曲名とオーケストラ名を紹介しよう。

第1集 恋はみずいろ

ナレーション:城 達也

オープニング ミスター・ロンリー:フランク・プゥルセル・グランド・オーケストラ

恋はみずいろ:ポール・モーリア・オーケストラ
魅惑のワルツ:マントヴァニー・オーケストラ
アンチェインド・メロディ:マントヴァニー・オーケストラ
ラ・メール:フランク・チャックスフィールド・オーケストラ
モナ・リザ:フランク・チャックスフィールド・オーケストラ
愛の賛歌:カーメン・キャバレロ

ナレーション:「花のかおり」(城 達也)

パリの空の下:カーメン・キャバレロ
愛の休日:ポール・モーリア・オーケストラ
アマポーラ:エドムンド・ロス楽団
ムーンライト・セレナーデ:グレンミラー・オーケストラ
愛の誓い:ベルト・ケンプフェルト楽団
ダンケ・シェーン:ベルト・ケンプフェルト楽団

ナレーション:「赤い屋根」(城 達也)

煙が目にしみる:マントヴァニー・オーケストラ
サウンド・オブ・ミュージック:マントヴァニー・オーケストラ
慕情:ロジャー・ウィリアムス

エンディング 夢幻飛行:アンドレ・バウアー&ジェットストリーム・オーケストラ

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2013年3月05日

♪ 偉大な歌手 越路吹雪


 先日、CDラックを整理していたら「誰もいない海 越路吹雪」というCD(東芝EMI CA32‐1113)が偶然にも出てきた。このCDは、大分前に買ったもので、その存在も半ば忘れかけていたものだ。そして、ジャケットの写真を見ていたら、私がこのCDを買った理由が徐々に脳裏に蘇ってきた。これは、越路吹雪を聴きたくて買ったというより、当時流行った「誰もいない海」をどうしても聴きたくなって買ったものなのである。作曲は越路吹雪の夫の内藤法美、作詞は詩人の山口洋子の作品である。今また聴いてみた。ほんとうにいい曲だ。繰り返し聴いても少しも飽きない。

 と、また思い出した。少し前、NHKテレビで越路吹雪と作詞家の岩谷時子の物語が紹介され、興味深く視たことを。その時、越路吹雪と岩谷時子の関係は、歌手とマネージャーの関係だったことをこのとき初めて知った。そして、番組も半ばのクライマックスに入った時、突如、作曲家の黛 敏郎が登場してびっくりしたのを覚えている。黛 敏郎(1929年―1997年)は、代表作の「涅槃交響曲」で知られる通り、戦後のクラシック音楽、現代音楽界を代表する音楽家の一人だ。また、東京藝術大学作曲科講師として後進の育成にもあたった我が国クラシック界の大御所だった人である。そんな黛 敏郎と越路吹雪の関係は?

 答えはエディット・ピアフが歌った名曲「愛の賛歌」にあった。越路吹雪はこの「愛の賛歌」に惚れ込み、日本語で歌うことになり、日本語の作詞を岩谷時子に頼んだ。困った岩谷時子は、フランス留学の経験を持ち、フランスの事情に明るかった黛 敏郎からアドバイスをもらい、完成したのが日本語の「愛の賛歌」だったのである。当時、越路吹雪が歌った「愛の賛歌」は一世を風靡していたのを思い出す。

 最初に書いた通り、「誰もいない海」が聴きたくて買ったCDを、今回全曲を通して聴いてみた。「誰もいない海」のほか「コンドルは飛んで行く」「ある愛の詩」「雪が降る」「オー・シャンゼリゼ」「悲しき雨音」「ケ・サラ」「明日は月の上で」「太陽は燃えている」「嘘」「トライ・トゥー・リメンバー」「もみじの手紙」の12曲である。聴いてみて一瞬息を飲んだ。何て上手いんだ。こんな歌手は滅多にお目にかかれるものではない。深い奥行きのある滑らかな音質。情熱を含んだ歌いっぷり。曲を表面的に歌うのではなく、自ら曲と一体化して、大きなスケールで歌い切っている。越路吹雪の昔からのファンには誠に申し訳ないが、私は今になって越路吹雪の凄さを知った。越路吹雪は偉大な歌手だったのだ。嘘だと思ったらどうか越路吹雪の歌を聴いてみてください。(蔵 志津久)

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2013年1月30日

♪ 日本の童謡、唱歌、抒情歌を網羅(71曲)した「唱歌・童謡ものがたり」(読売新聞文化部編/岩波書店刊)の重版を望む


 以前、クラシック音楽の小品を網羅した「クラシック 珠玉の小品500 心地よい曲・懐かしい曲・知られざる曲<改訂増補版>」(宮本英世著/DU BOOKS発行/ディスクユニオン発売)を紹介したことがあるが、この本には日本の曲が含まれていないので、今回は、日本の童謡、唱歌、それに抒情歌を網羅した本を紹介しようと思う。それは「唱歌・童謡ものがたり」(読売新聞文化部編/岩波書店刊)である。ここには全部で71曲について、それぞれの曲の作詞、作曲の由来が、読売新聞社の18人の記者たちの筆で紹介されている。しかし、残念なことに岩波書店のホームページで検索すると「品切重版未定 1999年8月25日発行」と記載されている。つまり、「絶版ではないが、今のところ重版がいつになるかは未定」ということらしい。では、入手は不可能かというとそうでもない。アマゾンなどのインターネットの通販サイトでは、中古本として購入が可能なようである。岩波書店には、是非、今後重版をお願いしたいものである。

 さて、この「唱歌・童謡ものがたり」は、読売新聞社が、親から子へ伝えられてきた名曲の生まれた背景や作詞家・作曲家についての紹介をしようと、1996年(平成8年)6月2日付の読売新聞日曜版からスタートした「うた物語―唱歌・童謡」の連載記事を基に単行本として発刊したもの。71曲は、「春よ来い」(18曲)、「夏の思い出」(19曲)、「秋の里」(22曲)、そして「冬の星座」(12曲)の春夏秋冬を表す4つの章に分けられ、それぞれの曲が物語風に紹介されている。

 例えば、「夏の思い出」(作詞:江間章子、作曲:中田喜直)を見てみると・・・。「終戦を迎えるが日本人のすべてが食うや食わずの生活。そんなときNHKが始めたのが『ラジオ歌謡』だった。国民に親しみやすい曲をラジオで紹介する企画。江間も作家人の一人に選ばれた。・・・謝礼は1曲30円。『私にとって、生きるためにはどうしても必要なお金だった』」。一方、作曲者の中田喜直はというと、「中古ピアノの前に座るとスラスラと曲想がわいた。ところが、『出来た、出来た』と喜んでいるのをそばで聞いた母親のこうさんがピシリと言ったのだ。『ちょっとお粗末なんじゃないの?』」。その声に中田喜直は発奮し、元の旋律を大幅に変更して完成させたのが名曲「夏の思い出」だったのだ。もし母親の一喝がなかったら、今の「夏の思い出」は生まれていなかったかもしれない。名曲「夏の思い出」にはこんな誕生秘話があったとは知らなかった。でも、これを読み、当時の日本人のつつましい生活を思い出し、「夏の思い出」が一層身近な曲となったのも事実だ。

 最近、発刊された日本の童謡、唱歌、抒情歌についての本にも優れたものがある。その一冊が「唱歌・童謡で学ぶ 伝え続けたい日本のこころ」(二宮 清、李 広宏著/五月書房刊)である。ここには、「日本のこころの歌」として16曲が紹介されている他に、「いまなぜ、唱歌・童謡か?」として、唱歌・童謡を歌い伝えるための基本的な心構えが、さらに「我国の歌の歴史」として、唱歌・童謡の生い立ちと普及と発展が述べられている。つまり、同書には、日本の童謡、唱歌、抒情歌を理論的に分析し、今後さらに継承するための指針が示されているのである。この本は、二宮 清と李 広宏の2人の著者の日本の童謡、唱歌に対する熱い思いが結晶したものだ。二宮 清は、ダイキン工業の技術者(工学博士)としての一方、趣味として、唱歌・童謡の歌碑、曲碑などの建立されているゆかりの地を訪ね、それぞれの歌の誕生の経緯を学んでいる。1961年、中国蘇州生まれの李 広宏は、1987年に来日。留学生として学ぶ傍ら、日本の童謡、抒情歌を自ら中国語に翻訳し歌い続ける音楽活動を続ける。この本には、李 広宏が日本語と中国語で歌う「李 広宏が歌う唱歌・童謡」のCDが付録として付けられている。

 CDの話が出たので、日本の童謡を英語で歌う、“童謡の伝道師”クレッグ・アーウィンに触れないわけにはいかなくなった。クレッグ・アーウィンは、アメリカの出身の東京在住のシンガーソングライター。ウィスコンシン大学、ミネソタ大学、ハワイ大学で学び、日本の童謡・唱歌を自らの視点で英訳し、現在ではその数100曲を超えるという。現在、日本各地でコンサート・公演等を行う他、テレビ、ラジオ、司会等を行い、“童謡の伝道”をライフワークとしている類まれな人物。これまで数多くのCDをリリースしているほか、著書としては、全13タイトル26曲のCDが付いた「グレッグ・アーウィンの英語で歌う、日本の童謡」などがある。(蔵 志津久)

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