クラシック音楽 音楽の泉


バックナンバー 2011年 6月

2011年6月29日

♪ 三ツ橋敬子の指揮を聴いて


 

 若手のホープ指揮者の三ツ橋敬子が東京フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に登場するというので、東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールに出かけることにした。今年が創立100周年の東フィルにとっても日本女性指揮者の定期演奏会登場は初めてのことだそうである。曲目は、中村紘子を迎えてのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番と交響曲第3番「英雄」の2曲。

 日曜日の午後開演なので久しぶりに渋谷の街を散策してみることにした。そこには昔と変わずに、若者たちが道いっぱいにあふれ、青春を謳歌している風景があった。その若者の喧騒の中に、東京のクラシック音楽の殿堂の一つであるBunkamuraオーチャードホールが存在している。いかにも日本的なあり方なのには改めて感心してしまった。交通の便が良いという利便性をアピールするかのようなホールなのだ。

 大きなホールがほぼ満席になったのを見ると、東フィル、中村紘子それに今話題の三ツ橋敬子の三大看板が揃えば、集客力満点ということを見せ付けられる思いがした。最初のベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番の中村紘子のピアノ演奏は、正に円熟の境そのものといった弾きっぷりで、聴衆を魅了した。このような懐の深いベートーヴェンの演奏は、豊富な経験と絶え間ない研鑽がなくては到底実現することはできないであろう。その意味でも中村紘子がわが国の楽界を牽引していること自体大いに意義がある。

 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番における三ツ橋敬子の指揮は、全体に無難に手堅く演奏したという印象だ。伴奏の指揮という意味合いを考えてのことであろう。面白かったのは、中村紘子が三ツ橋敬子の後ろから、あたかも自分の娘の指揮ぶりをサポートしているかのように振舞っていたこと。時には勢いあまって、自ら左手で、三ツ橋敬子の後ろから、オーケストラ指揮をしているのでは?ともとれる仕草をしていた。そこには、これからわが国のクラシック音楽界を背負って立つ、若い女性指揮者を何とか支えたいという思いが滲み出ていたのである。

 そして、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の演奏が始まった。私は今回初めて三ツ橋敬子の指揮を生で聴いたが、結論をいうと、オケを思う存分歌わせ、音が溌剌と響き渡る若々しい指揮ぶりが特に印象に残った。あいまいさがない指揮、だからといって少しもぎすぎすしたところはない。ホールいっぱいに豊かに響き渡る音を聴きながら、ぼんやりとトスカニーニの愛弟子で夭折したイタリアの天才指揮者グィド・カンテルリの演奏を思い出していた。そうだ、イタリア音楽の明るい響きなのだ。そう言えば三ツ橋敬子は今、イタリア在住ではないか。その影響は小さくないはずだ。それに、三ツ橋敬子は2010年、アルトゥーロ・トスカニーニ国際指揮者コンクールで準優勝並びに聴衆賞を受賞している。

 最近は、教育の効率化やオーケストラの技術の向上などで、以前に比べて若い指揮者が進出しやすい条件が整っているといわれている。そんな中、三ツ橋敬子が桧舞台に登場してきたわけだが、彼女の場合、ただそれだけではないようだ。楽譜を原典から調べ直す努力、それに楽団員の気持ちを汲み取る人間的魅力などが相まって今日に至っていると聞いた。指揮者はあらゆる演奏家の中でも最も長く現役を務められる。それからすると三ツ橋敬子は指揮者活動のスタートを切ったばかりである。今後三ツ橋敬子がどう成長していくか、大いに楽しみなことではあるし、今回の指揮を聴いて、大成する資質を十分に有していると実感できた。(蔵 志津久)

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2011年6月08日

♪ 歴史の証言者・アシュケナージ、熱く語る


 

 現在、NHK交響楽団の桂冠指揮者を務めるウラディーミル・アシュケナージが、東日本大震災の第一報を聞いたのは、オーストラリアでマーラーの交響曲を録音中のことであったという。「ちょうど録音ディレクターが日本人であったので、余計鮮明に記憶している」とその時のことを語る。そして、今回の被災者に対し「私のできることなら何でもしたい」と言う。今回の「アシュケナージが語る音楽」(主催=朝日カルチャーセンター)の進行役である玉川大学准教授の野本由紀夫氏は「東日本大震災によって海外からキャンセルが相次ぐ中、アシュケナージさんにそう言っていただき、感謝申し上げたい」というところから、アシュケナージの、指揮ではなく、ピアノ演奏でもなく、クラシック音楽についての“トーク”がスタートしたのである。

 アシュケナージは、1937年旧ソ連のゴーリキーに生まれている。ピアニストとしての経歴は、誠に輝かしいものがある。1955年、ショパン国際ピアノコンクールで第2位。同年、モスクワ音楽院に入学。1956年、エリザベート王妃国際音楽コンクールで優勝。1962年、チャイコフスキー国際コンクールで優勝。ここまでは、順風満帆といおうか、アシュケナージは飛ぶ鳥を落とす勢いのピアニストであったわけである。しかし、1963年、突如、実質的な亡命に当るロンドン移住をアシュケナージは敢行してしまう。アシュケナージは、時の旧ソ連政府の全体主義的政治体制に激しく抵抗していたのだ。アシュケナージの叔父さんが「旧ソ連政府の犠牲者なった」ことを明らかにしたことからも、当時の厳しい政治状況が推測される。

 現在は、妻の母国アイスランドの国籍を持ち、スイスに居を構えている。日本へは、1965年以来たびたび来日し、2004年―2007年、NHK交響楽団の第2代音楽監督を務め、現在はN響の桂冠指揮者。また、2009年1月からシドニー交響楽団首席指揮者・音楽アドヴァイザーに就任している。このほかアイスランド交響楽団の桂冠指揮者などを務めるなど、指揮者としての経歴を着実に広げている。私などは、アシュケナージの名を聞くと、反射的にピアニストと感じてしまうが、現在は、指揮者としての活動が中心となっているようである。ピアニストにしろ指揮者にしろ、通常のコンサートでは、音楽しか聴くことはできない。ところが、今回、朝日カルチャーセンターが「アシュケナージが語る音楽」という講座を開講したので、アシュケナージの“生の声”を聞いてみたくなり聴講することにした。

 経歴を見たり、年齢を考えると、今やアシュケナージは世界のクラシック音楽界のドン的存在にもかかわらず、いたってざっくばらんな性格であることがこの講座を通して分かった。会場に小走りで入ってくるや否や、障害物をぴょんと飛んで自分の席に座り、聴講者に向かいにっこりと笑いながら挨拶をした。何か、街で遇ったら「やあ、アシュケナージさん今日は」と声を掛けたくなるような雰囲気だ。5月と6月の定期演奏会で、アシュケナージがN響を指揮したのは、AプログラムがR.シュトラウスの「変容」とブラームスの交響曲第4番、Bプログラムがショスタコーヴィッチの「弦楽八重奏のための2つの小品」と交響曲第5番、それにプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番である。

 アシュケナージは、今回の選曲について次のように語る。「R.シュトラウスはナチに対して、ショスタコーヴィッチは旧ソ連政府に対して批判した結果、これらの作品が誕生した。R.シュトラウスはナチの傲慢さを嘆き、ショスタコーヴィッチは交響曲第5番を作曲したことによって、スターリンの自分に対する批判を封じたのだ。つまり、この2曲は、独裁者に対する批判精神という点で共通するものがある。ショスタコーヴィッチは、軍が勝利したわけではなく、2000万人ものロシア国民の犠牲によって勝利したことを言いたかった。ショスタコーヴィチは直接何も言っていないが、最後のフレーズを聴けば勝利の歓喜の曲ではないことは歴然としている。そして、旧ソ連政府の意に沿わない交響曲第9番をわざと書いた。R.シュトラウスは、文化大臣のときナチを批判し、収容所へ送られ、ここでナチへの批判を『変容』という曲に込めたのだ」

 アシュケナージは、ショスタコーヴィッチと挨拶を交わし、プロコフィエフの生の演奏も聴いているそうである。プロコフィエフも、旧ソ連政府の「労働者階級のために曲を書け」という指示に対して批判を行った。旧ソ連政府は、プロコフィエフが病状の悪化を理由に自宅に引きこもったことに対しては、それ以上追求はしなかった。このことについてアシュケナージは「当時プロコフィエフは既に世界的に大作曲家扱いだったので、旧ソ連政府でも手が付けれなかったのだろう」と言う。それは、スターリンが死んだ同じ日(1953年3月5日)に、プロコフィエフも死んだが誰も知らなかったことでも分かる。そして、モスクワ全体がスターリンが死んだことで喪に服し、街では泣きながら歩いている人も多くいたということだが、これについてアシュケナージは「洗脳されることの恐ろしさを感じる」と当時を振り返る。

 これから、アシュケナージが指揮する演奏会やCDを聴く機会があるだろうが、そのとき若き日のアシュケナージが経験した全体主義の嵐を少しでも意識して聴いたならば、その演奏の印象も少しは違って聴こえてくるかもしれない。暗い過去の話を終えると、アシュケナージの表情は、会場に入ってきたときと同じチャーミングな笑顔に戻っていた。そして入ってきたときと同じに小走りで出口に向かい、最後にくるりと振り返り、大きな声で「シー・ユー・アゲイン」とひとこと言って会場を去っていった。アシュケナージは、時代の大きなうねりに翻弄されながらピアニストの道を歩み続け、さらにこれからは指揮者の道を極めようとしているのである。(蔵 志津久)

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