クラシック音楽 音楽の泉


2012年6月14日

♪ ヒラリー・ハーンそしてパーヴォ・ヤルヴィ&フランクフルト放送交響楽団に感謝!


 

 今を時めく指揮者パーヴォ・ヤルヴィとドイツのオーケストラであるフランクフルト放送交響楽団の演奏会が、6月7日(木)にサントリーホール(東京・六本木)で行われるというので聴きに行くことにした。当日は、これも“今が旬”のヴァイオリニストであるヒラリー・ハーンが、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾くというではないか。これは是非聴いてみたいということになったわけである。

 席は2階のやや左側。コンサート会場で音が一番いいのが2階席か3階席の正面である。皇室の方が聴かれるのもこの辺の席である。この場合は多分音質というより、セキリュティ上の問題であろうかと思うが。そんなわけで、私は最近コンサートを聴く場合は、2階席か3階席の正面をターゲットにしている。1階席はあまり前だと音が“聴こえ過ぎて”よくないし、1階席の半分より後ろの席は、音がよく聴こえないし(音が頭の上を通過する感じ)演奏者の姿も見えにくい。それだったら2階席以上の上の階の方がずっといい。でも席がなくなるのは、いつも大体1階席からであるのは実に不思議なことではある。

 演奏が始まった。ヒラリー・ハーンは“今が旬”のヴァイオリニストらしく、ステージに登場したその時から、既に会場全体の雰囲気が盛り上がっていくのが肌で感じられた。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲自体はもう耳たこのように何回も聴いてきたので、そう感動するものではないが、ヒラリー・ハーンがどう弾きこなすか見もの(聴きもの)であった。ヒラリー・ハーンのヴァイオリン演奏は、かなりハリがあって、全体にピンと緊張感が漂うものであると同時に、私には、水墨画を見ているような“幽玄”な趣も強く感じられた。若いヴァイオリニストにありがちな、力ずくで弾きこなすといったことは微塵も感じられない。かと言って情緒纏綿に弾き切るわけでもない。私には、ヒラリー・ハーンがメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏するに当たって、自分のイメージの上に再構築しながら弾いていたように聴こえ、聴き応え十分であった。

 さらにアンコールで弾いた2曲のバッハの無伴奏ヴァイオリン曲も絶品の出来栄えで、会場全体が緊張感で静まり返っていたほど。ヒラリー・ハーンは度々来日し、アンコールの曲目紹介も日本語でする。気軽にサイン会も行う。東日本大震災の時は、支援コンサートをアメリカで度々行ったという。これらのことは、子供の頃、スズキメソッドでヴァイオリンを習ったことが、何か関係しているのであろうか。

 そして次は本日のメーンイベントである、パーヴォ・ヤルヴィ指揮のフランクフルト放送交響楽団によるブルックナーの交響曲第8番である。「ブルックナーの交響曲はどれも同じに聴こえる」と言い放った人がいたが、言いえて妙とでも言ったらよいのであろうか。第4番や第9番はしばしば演奏されるが、第8番はそう演奏される機会も多くないし、自宅でブルックナーの第8番をしょっちゅう聴いているというリスナーもそんなにいないのではないか。何しろ演奏時間が70分を超え、長いのが最大の関門だ。ブルックナーが作曲した時代の時間の感覚と、現代の我々の感じる時間の感覚自体が違うのだと私は思う。ブルックナーが生活していた時代は、時間はたっぷりとあり、現代人みたいに忙しくないので、第8番の長さは今感じるほどでもなかったと思う。

 パーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団の演奏は、ブルックナーに正面から取り組み、一部の隙もない緻密な演奏であった。同時に強烈なエネルギーの発散みたいなオーケストラの咆哮を聴くことができ、久しぶりに溜飲が下がった思いがする。ドイツのオーケストラの真骨頂みたいなものが聴き取れたのである。パーヴォ・ヤルヴィの指揮は、堂々と曲に正面から取り組む姿勢が素晴らしい。要するに横綱相撲なのである。今後のパーヴォ・ヤルヴィの活躍には目(耳)が離せないと感じた。久しぶりに満足のいくコンサートに出会えて、ヒラリー・ハーンそしてパーヴォ・ヤルヴィ&フランクフルト放送交響楽団に感謝!(蔵 志津久)

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2012年2月24日

♪ LPレコード復権の予兆か、それとも最後の挑戦か?


 現在、わが国においてクラシック音楽の録音媒体としてディジタルのCDのシェアが高い中、昨年末に ドイツプレスの14枚のLPレコードからなる「フルトヴェングラーRIAS録音選集LP-BOX」(キング ・インターナショナル)が発売された。 これは1947年~1954年にRIAS放送局が録音したフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのオリジナル76cm/secテープからLPレコード化したもの。果たしてこれは、今後アナログのLPレコードの復権の予兆 となのであろうか、それともこれがLPレコード最後の挑戦となるのであろうか。

 今回のLPレコードの発売の経緯は、全世界のフルトヴェングラーファンからの要望に応えたものという。 現在、わが国のクラシック音楽界においては、アナログのLPレコードは、ディジタルのCDやインターネッ トからのダウンロードに駆逐され、徐々に市場からその姿を消そうとしている。このため、熱烈なLP レコードのファンは、中古レコード店へ出向き、お気に入りのレコードを探し回るか、海外からの輸入レ コード専門店へ注文するしかない状況にある。

 何故、そうまでしてLPレコードにこだわるかというと、音質の良さに尽きる。レコードは、扱いを一つ 間違うと傷を付けてしまうし、長期間保存するとカビなどにより雑音が発生してしまう。そんな理由により、 現在では、主役の場をCDに明け渡してしまい、市場から徐々にその姿を消そうとしている。しかし、そんな 欠点を補って余りあるのが、音質の良さである。普通のCDは、帯域を圧縮して録音するため、オリジナル テープの音質が損なわれると言われてきた。現に普通のCDを聴くと何かキンキンした音質が気にはなる。

 そこで一般のCDの音質を改良し、限りなくアナログ録音に近づけたCDが登場している。それらは、 HQCD(ハイク・オリティCD)、SHM-CD(スーパー・ハイ・メタリアルCD)、SACD(スーパー・オーデ ィオCD)などである。また最近では、クラシック音楽でもインターネットからのダウンロードが徐々に 普及し始めているが、これを高音質化した“ネットオーディオ(PCオーディオ)と呼ば れる新しいジャンルのオーディオが注目されている。つまり、これまで音質が悪いと評判が悪かったディ ジタルオーディオ自体がアナログの良さを取り入れた新しい製品に生まれ変わろうと模索しているのである。

 そんなオーディオ激動の真っ只中に今回のアナログの「フルトヴェングラーRIAS録音選集LP-BOX」の 発売である。「鮮やかで豊かな管楽器の倍音や、シャープかつ重厚な弦パートが聴け、こんなにもオリジ ナルマスターテープには豊富な音が凝縮されているのかと予想以上の音に驚かされたのである。CDの方が 遥かにオーディオ特性は優れているのに、このLPはそんなことを考えさせないほど、広いレンジ感を聴か せている」(オーディオ・ベーシック 2011 AUTUM Vol.60角田郁雄氏)とLPレコードへの専門家の評価は 高い。

 最新の技術を駆使したディジタルオーディオが、従来のアナログオーディオであるLPレコードをこの まま駆逐してしまうのか、あるいは、アナログのLPレコードがディジタルオーディオの追撃を振り切って、 今後も生き延びることができるのか。今回の「フルトヴェングラーRIAS録音選集LP-BOX」の発売は、近未 来のクラシック音楽のオーディオのあり方を占う上でも注目されよう。(蔵 志津久)

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2012年2月10日

♪ 若手のホープ金子三勇士とウクライナ国立オデッサ歌劇場管弦楽団のコンサートを聴いて


 金子三勇士とウクライナ国立オデッサ歌劇場管弦楽団のコンサートを聴きに、東京・新宿の東京オペ ラシティに行ってきた。両方ともこれまで生で聴く機会がなかったので、半分は興味津々、半分は期待ほどでなかったらどうしよう、という一抹の不安があったのも事実である。しかし、そんな不安は一挙に 解消してしまうほどの出来栄えであったから、満足して帰路に付けたのだった。演奏曲目は全てチャイコフスキーで、アレクサンドル・ドレンスキーの指揮により大序曲「1812年」、次に金子三勇士のピアノで ピアノ協奏曲第1番、そして最後に交響曲第5番というプログラム。

 満足したと言っても、最初の大序曲「1812年」だけ取ると、私にはちょっと納得いかない演奏であった。 音は立派に鳴るのではあるが、何かオーケストラのメンバーがやたらに力を入れ過ぎる。弦楽器、管楽器とも音は出ているのだけれど、何かばらばらな感じがして、しかも一本調子で馴染めない。曲の性格上、派手に演奏するのは仕方がないと思うが、逆にそうであるからこそ情感あふれる演奏を期待していたのだが・・ ・。このオーケストラの特徴なのか、あるは指揮者の好みなのか。もう、後の曲の演奏に期待するしかない と半ば諦めていたのも事実だ。

 しかし、その杞憂もピアノ協奏曲第1番の演奏であっさりと解消してしまった。金子三勇士のピアノ 演奏は、如何にも若者らしい瑞々しさに溢れ、しかもテクニックは万全だ。決して気負うところがない ところが逆に将来の可能性の大きさを伺わせる演奏内容であった。普通、チャイコフスキーのピアノ 協奏曲第1番を若手のピアニストが弾くと、やたらと肩に力が入り、無理にスケールを大きく見せようとするので聴衆の方が疲れてしまう。ところが金子三勇士は全く違う。真正面からチャイコフスキーに向き合うのではあるが、変な気負いは微塵もない。普通、泥臭く聴こえるチャイコフスキーが実に美しく、しかも堂々と響くのである。何かチャイコフスキーのピアノコンチェルトの新しい側面を垣間見れた、と言っては言い過ぎなのかもしれないが、新鮮な息吹がそこにはあったのだ。

 ドレンスキー&オデッサ歌劇場管も、ここでは実に的確な伴奏を演じてくれた。分厚く、豊かな弦楽器とよく通る管楽器のバランスが見事に合い、金子三勇士のピアノ演奏を盛り上げ、さらにお釣りがくるようないい演奏であった。この好調さは、最後の交響曲第5番に繋がった。東欧特有の美しい弦楽器の響きが印象的であったし、管楽器もこの交響曲の陰影をより一層引き立たせることに成功していた。これを演出したドレンスキーの指揮が的確であったからこそ、そういうことが言えるのであろう。

 いずれにせよ今回のコンサートを聴いて、金子三勇士がわが国のピアノ界のホープであることを確認できたことは、私にとって大きな収穫であった。金子三勇士は、日本人の父とハンガリー人の母の下、1989年に生まれた。国立リスト音楽院で学び、現在東京音楽大学4年に在籍している。2008年、バルトーク国際ピアノコンクールに優勝し世界の注目を浴びた。また、2010年には「ホテルオークラ音楽賞」を受賞。これからは“世界の金子三勇士”として一層の飛躍を期待したいものだ。(蔵 志津久)

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2012年1月06日

♪ 「エッ、『ストラディバリウス』って、いい音ではなかったのですか?」・・・米国での実験結果に思う


 最近の米国から届いたニュースの中で、古今のヴァイオリンの名器中の名器と言われている「ストラディバリウス」や「ガルネリ」についての実験結果が紹介されていたのが目に止まった。それというのも、最近「ストラディバリウス」と「現代のヴァイオリン」の弾き較べが行われ、私自身聴き較べてみる機会を得たからである。その時の私の印象は、「ストラディバリウス」は随分渋い音がするな、と感じたのに対し、「現代のヴァイオリン」の音色は、明るく伸びやかだな、というものであった。「実際のコンサートでどちらが聴きたいか」と問われたなら、私なら「現代のヴァイオリン」と答えたいところだが、「お前の耳は名器を聴き取る能力がない」と一蹴されそうで、到底口に出しては言えそうもない雰囲気だったことを覚えている。

 そんな折、今回の実験結果のニュースが報じられたので、大げさに言えば鬼の首を取った気分になったのである。そのニュースよると「米インディアナ州で開かれた国際コンテストに集まった21人のヴァイオリニストに協力してもらい、楽器がよく見えないよう眼鏡をかけたうえで、18世紀に作られたストラディバリウスや、現代の最高級ヴァイオリンなど計6丁を演奏してもらい、どれが一番いい音か尋ねたところ、安い現代のバイオリンの方が評価が高く、ストラディバリウスなどはむしろ評価が低かった」というのだ。

 この実験がどのような条件下で行われたのかどうかの確認はできないので、あまり早計な結論は出さない方がいいのかもしれない。そもそも「いい音」というのはどのような音をいうのか、はなはだ曖昧な基準ではある。個人の趣味の問題でもあるし、別のところで、同じような実験をしたら、全く別の結果が出て来るかも知れない。現在、世界の物理学会で「ニュートリノが光速よりも早い」という実験結果が物議を醸していることでも分るように、実験結果が必ずしも真実だとは言えないケースも少なくない。甚だしい場合は、研究者の功名心や予算獲得のための手段に実験が利用されるケースだってなくはないのだから。

 仮にそんなことを差し引いても、今回の米国でのヴァイオリンの実験結果は、何か気に掛かるのである。人間は第一印象に弱い。一度、「これが世界一の音だ」と思い込んだなら、何度聴いても「世界一」の音に聴こえてしまう。以前、音楽評論家に目隠しをして、生の演奏とオーディオ再生の音の聴き較べ実験をしたところ、聴き分けられなかったという話があるくらいなのだ。この際、日本にある「ストラディバリウス」と「現在のヴァイオリン」との聴き較べの演奏会を、多くのクラシック音楽ファン参加の下で行い、その投票結果を公開したらさぞかし面白いと思うのだが。ただし、それでも「いい音」とは何かという謎は、永遠に解き明かせそうにもない。(蔵 志津久)

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2011年10月05日

♪ 世界の檜舞台で活躍する3人の日系指揮者 ケント・ナガノ/準・メルクル/アラン・ギルバート


 国際舞台での韓国、中国の若手演奏家の活躍が伝えられる中、これまで、日本人の入賞者を多く排出してきたショパン国際ピアノコンクールおよびチャイコフスキー国際コンクールでの敗退という厳しい現実に直面し、わが国のクラシック音楽界の将来に俄に暗雲が垂れ込めたかのような雰囲気が充満していた。「経済で中国に抜き去られ、韓国に追い詰められているが、クラシック音楽界でも同様なことになるのではないか」と・・・。

 しかし、そんな雰囲気を一挙に拭い去る快挙がフランスからもたらされた。垣内悠希(33歳)がブザンソン国際指揮者コンクールで前回の優勝者・山田和樹に続き、日本人が2回連続優勝を成し遂げたのだ。ブザンソン国際指揮者コンクールは、小澤征爾をはじめとして、これまで多くの日本人の優勝者を排出してきたことで知られる。「ブザンソン国際指揮者コンクールは、日本人のための指揮者コンクールではないのか」と陰口を叩かれるほど日本人の若手指揮者の活躍が目立ち、今回もこの伝統を守り切ったわけである。

 ところで、意外と日本では話題とはなっていないが、現在3人の日系指揮者が世界の檜舞台で大活躍している。その3人とは、モントリオール交響楽団とバイエルン国立歌劇場の音楽監督およびベルリン・ドイツ交響楽団の名誉指揮者を務めるケント・ナガノ(1951年生まれ)、それにライプツィヒ放送交響楽団(MDR交響楽団)首席指揮者・芸術監督の準・メルクル(1959年生まれ)、そしてニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督のアラン・ギルバート(1967年生まれ)の3人である。

 もうこの3人は、日本でも知られた存在の指揮者ではあるが、3人とも日系人であり、その日系人が同時期に、世界でも指折りのオーケストラの音楽監督の地位にあるということは、過去のわが国のクラシック音楽界においても無かったことではないかと思う。アラン・ギルバートがニューヨーク・フィルの音楽監督就任後、初来日のコンサートを開催した際も、日頃、海外での活躍を大々的に扱いたがるわが国のマスコミとしては、何故か沈黙していたのは、不思議と言えば不思議なことだ。日本のクラシック音楽ファンとしては、今後、この3人の日系人指揮者の活躍を見守って行きたいものである。

 ケント・ナガノは、日系3世の米国の指揮者。父方の祖父が熊本からカリフォルニアへ渡った移民で、農園経営で成功したという。カリフォルニア大学とサンフランシスコ大学で学ぶが、音楽が全てではなかったようだ。1978年から28年間、バークレー交響楽団の音楽監督を務めると同時に、ハレ管弦楽団、リヨン国立オペラの首席指揮者、音楽監督も務める。2006年よりモントリオール交響楽団およびバイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任。ベルリン・ドイツ交響楽団の名誉指揮者を務める。2008年には、日本政府より旭日小綬章を受賞している。

 準・メルクルは、ドイツ人と日本人の母のあいだに生まれたドイツの指揮者。ミュンヘン音楽大学、ハノーファー音楽大学で学ぶ。1991年―1994年ザールラント州立劇場音楽総監督。1993年には、ウィーン国立歌劇場のデヴューで「トスカ」を指揮し、大成功を収めると同時に国際的にも注目を集める。1994年―2000年マンハイム国民劇場音楽総監督、2005年―2011年リヨン国立管弦楽団音楽監督、そして2007年からは、ライプツィヒ放送交響楽団(MDR交響楽団)首席指揮者・芸術監督に就任している。

 アラン・ギルバートの父は、ニューヨーク・フィルの元ヴァイオリン奏者であり、母は現在ニューヨーク・フィルでヴァイオリニストを務める建部洋子さん。建部洋子さんは、1942年横浜生まれで、1957年、1958年、16歳で日本音楽コンクールヴァイオリン部門で1位の実績を持っている。ギルバート自身もこれまで、ジュネーブ国際音楽コンクール指揮部門優勝、Bunkamuraオーチャードホールの「未来の巨匠」賞、ゲオルグ・ショルティ賞などの受賞歴があり、妹もヴァイオリニストという音楽一家。2010年から、ロリン・マゼールの後を継ぎ、ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督に就任し、今後の活躍に期待が集まっている。(蔵 志津久)

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2011年7月21日

♪ 日系二世でニューヨーク・フィル音楽監督就任後初来日のアラン・ギルバートの演奏会を聴く


 

 日系二世で2010年からニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督に就任したアラン・ギルバート(1967年ニューヨーク生まれ)が、ニューヨーク・フィル音楽監督就任後初めて来日し、東京都交響楽団を指揮した。会場は東京・赤坂のサントリーホール。アラン・ギルバートはこれまで度々来日し、N響などを指揮しているのでその演奏を聴いている方もおられるだろうが、私は初めてである。あまりCDも見かけないので、一度はその指揮ぶりを聴いてみようということで、出かけてみることにしたわけである。当日の曲目は、ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲、ドイツの俊英フランク・ペーター・ツィンマーマンのヴァイオリンによるベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」、そして、最後にブラームス:交響曲第1番というラインアップ。

 最初のブラームス:ハイドンの主題による変奏曲は、私には、何かウォーミングアップみたいに聴こえ、残念ながら特別な特徴が、その棒さばきからは聴きとることはできなかった(私一人であるのかもしれないのだが)。しかし、もしかするとアラン・ギルバートは、後半追い上げ型の指揮者なのか、次のベルク:ヴァイオリン協奏曲に入ると、誠に幻想的な伴奏に徹し、ヴァイオリンのフランク・ペーター・ツィンマーマンと息がピタリと合い、この類稀な美しさを備えたヴァイオリンコンチェルトを見事に指揮して見せたのである。ツィンマーマンは、現在、ニューヨーク・フィルのレジデント・アーティストを務め、ギルバートとは個人的な交流を含めて親密な間柄ということを後で知り、さもありなんと一人納得したわけである。この日の演奏会は、ギルバートの指揮を聴きに行ったわけなのであるが、結果的にツィンマーマンの名演を聴き、さらに2人のコンビネーションに感心したという、通常の演奏会の2倍の楽しみを味わうことができた。

 そして、最後にギルバート指揮でブラームス:交響曲第1番が始まった。一体どんな指揮ぶりを聴かせてくれるのかと、私は2階の席に座り、興味津々であったことは言うまでもない。ところで一般的に2階の、それも壁際の席が一番良い音が聴こえるのに、1階の席から埋まっていくのは一体何故だろう?などという、実につまらぬことを考えながら聴き進んで行ったのである。結論から言うと、ギルバートの指揮は、従来の伝統的なブラームス像に埋もれることなく、実に新鮮ではつらつとしたブラームス像を創造することに成功した。東京都交響楽団もそんなエネルギッシュなギルバートの指揮に敏感に反応し、生き生きとした演奏を繰り広げた。ギルバートはアメリカで生まれ育ち、ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任したわけで、ある意味では、ヨーロッパの伝統に足を引っ張られることなく、現代のアメリカの空気に最も馴染むブラームス像を新たに再構築することができたのではないだろうか。ここまで聴いてアラン・ギルバートが、今回何故ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任したのかが何となく分ってきた。この姿勢で今後も指揮を続けて行けば、多分ギルバートは世界のクラシック音楽界の新しい旗手の一人に成長を遂げるであろう。

 ギルバートの父は、ニューヨーク・フィルの元ヴァイオリン奏者であり、母は現在ニューヨーク・フィルでヴァイオリニストを務める建部洋子さん。建部洋子さんは、1942年横浜生まれで、1957年、1958年、16歳で日本音楽コンクールヴァイオリン部門で1位の実績を持っている。ギルバート自身もこれまで、ジュネーブ国際音楽コンクール指揮部門優勝、Bunkamuraオーチャードホールの「未来の巨匠」賞、ゲオルグ・ショルティ賞などの受賞歴があり、妹もヴァイオリニストという音楽一家だ。今回の日本公演は、ニューヨーク・フィル音楽監督就任後初来日し、母の母国での言わば“凱旋公演”でもあった。

 そんなギルバートが「親愛なる日本の皆さまへ」と題するコメントを寄せているので、最後に紹介しておこう。「日本は、様々な理由で、私にとって世界中で最も重要な場所のひとつです。いうまでもなく母が日本人なので、まず家族という意味で、親密な絆を感じています。また、音楽家という職業としては、日本に帰ってくると特別にアットホームな感じがするのは、いくつかの思い出深い音楽的な体験が、この日本にあったからです。今年、大震災と福島の原発事故があった後で、特に重要なことは、世界中の音楽家が日本を支援する意思を示し、日本の音楽家と人々との兄弟愛を示したことです。そういう理由で、私が今回来日し、素晴らしい東京都交響楽団と一緒に音楽ができることは、普段以上に特別な意味があると感じています」 アラン・ギルバート。(蔵 志津久)

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2011年6月29日

♪ 三ツ橋敬子の指揮を聴いて


 

 若手のホープ指揮者の三ツ橋敬子が東京フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に登場するというので、東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールに出かけることにした。今年が創立100周年の東フィルにとっても日本女性指揮者の定期演奏会登場は初めてのことだそうである。曲目は、中村紘子を迎えてのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番と交響曲第3番「英雄」の2曲。

 日曜日の午後開演なので久しぶりに渋谷の街を散策してみることにした。そこには昔と変わずに、若者たちが道いっぱいにあふれ、青春を謳歌している風景があった。その若者の喧騒の中に、東京のクラシック音楽の殿堂の一つであるBunkamuraオーチャードホールが存在している。いかにも日本的なあり方なのには改めて感心してしまった。交通の便が良いという利便性をアピールするかのようなホールなのだ。

 大きなホールがほぼ満席になったのを見ると、東フィル、中村紘子それに今話題の三ツ橋敬子の三大看板が揃えば、集客力満点ということを見せ付けられる思いがした。最初のベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番の中村紘子のピアノ演奏は、正に円熟の境そのものといった弾きっぷりで、聴衆を魅了した。このような懐の深いベートーヴェンの演奏は、豊富な経験と絶え間ない研鑽がなくては到底実現することはできないであろう。その意味でも中村紘子がわが国の楽界を牽引していること自体大いに意義がある。

 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番における三ツ橋敬子の指揮は、全体に無難に手堅く演奏したという印象だ。伴奏の指揮という意味合いを考えてのことであろう。面白かったのは、中村紘子が三ツ橋敬子の後ろから、あたかも自分の娘の指揮ぶりをサポートしているかのように振舞っていたこと。時には勢いあまって、自ら左手で、三ツ橋敬子の後ろから、オーケストラ指揮をしているのでは?ともとれる仕草をしていた。そこには、これからわが国のクラシック音楽界を背負って立つ、若い女性指揮者を何とか支えたいという思いが滲み出ていたのである。

 そして、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の演奏が始まった。私は今回初めて三ツ橋敬子の指揮を生で聴いたが、結論をいうと、オケを思う存分歌わせ、音が溌剌と響き渡る若々しい指揮ぶりが特に印象に残った。あいまいさがない指揮、だからといって少しもぎすぎすしたところはない。ホールいっぱいに豊かに響き渡る音を聴きながら、ぼんやりとトスカニーニの愛弟子で夭折したイタリアの天才指揮者グィド・カンテルリの演奏を思い出していた。そうだ、イタリア音楽の明るい響きなのだ。そう言えば三ツ橋敬子は今、イタリア在住ではないか。その影響は小さくないはずだ。それに、三ツ橋敬子は2010年、アルトゥーロ・トスカニーニ国際指揮者コンクールで準優勝並びに聴衆賞を受賞している。

 最近は、教育の効率化やオーケストラの技術の向上などで、以前に比べて若い指揮者が進出しやすい条件が整っているといわれている。そんな中、三ツ橋敬子が桧舞台に登場してきたわけだが、彼女の場合、ただそれだけではないようだ。楽譜を原典から調べ直す努力、それに楽団員の気持ちを汲み取る人間的魅力などが相まって今日に至っていると聞いた。指揮者はあらゆる演奏家の中でも最も長く現役を務められる。それからすると三ツ橋敬子は指揮者活動のスタートを切ったばかりである。今後三ツ橋敬子がどう成長していくか、大いに楽しみなことではあるし、今回の指揮を聴いて、大成する資質を十分に有していると実感できた。(蔵 志津久)

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2011年6月08日

♪ 歴史の証言者・アシュケナージ、熱く語る


 

 現在、NHK交響楽団の桂冠指揮者を務めるウラディーミル・アシュケナージが、東日本大震災の第一報を聞いたのは、オーストラリアでマーラーの交響曲を録音中のことであったという。「ちょうど録音ディレクターが日本人であったので、余計鮮明に記憶している」とその時のことを語る。そして、今回の被災者に対し「私のできることなら何でもしたい」と言う。今回の「アシュケナージが語る音楽」(主催=朝日カルチャーセンター)の進行役である玉川大学准教授の野本由紀夫氏は「東日本大震災によって海外からキャンセルが相次ぐ中、アシュケナージさんにそう言っていただき、感謝申し上げたい」というところから、アシュケナージの、指揮ではなく、ピアノ演奏でもなく、クラシック音楽についての“トーク”がスタートしたのである。

 アシュケナージは、1937年旧ソ連のゴーリキーに生まれている。ピアニストとしての経歴は、誠に輝かしいものがある。1955年、ショパン国際ピアノコンクールで第2位。同年、モスクワ音楽院に入学。1956年、エリザベート王妃国際音楽コンクールで優勝。1962年、チャイコフスキー国際コンクールで優勝。ここまでは、順風満帆といおうか、アシュケナージは飛ぶ鳥を落とす勢いのピアニストであったわけである。しかし、1963年、突如、実質的な亡命に当るロンドン移住をアシュケナージは敢行してしまう。アシュケナージは、時の旧ソ連政府の全体主義的政治体制に激しく抵抗していたのだ。アシュケナージの叔父さんが「旧ソ連政府の犠牲者なった」ことを明らかにしたことからも、当時の厳しい政治状況が推測される。

 現在は、妻の母国アイスランドの国籍を持ち、スイスに居を構えている。日本へは、1965年以来たびたび来日し、2004年―2007年、NHK交響楽団の第2代音楽監督を務め、現在はN響の桂冠指揮者。また、2009年1月からシドニー交響楽団首席指揮者・音楽アドヴァイザーに就任している。このほかアイスランド交響楽団の桂冠指揮者などを務めるなど、指揮者としての経歴を着実に広げている。私などは、アシュケナージの名を聞くと、反射的にピアニストと感じてしまうが、現在は、指揮者としての活動が中心となっているようである。ピアニストにしろ指揮者にしろ、通常のコンサートでは、音楽しか聴くことはできない。ところが、今回、朝日カルチャーセンターが「アシュケナージが語る音楽」という講座を開講したので、アシュケナージの“生の声”を聞いてみたくなり聴講することにした。

 経歴を見たり、年齢を考えると、今やアシュケナージは世界のクラシック音楽界のドン的存在にもかかわらず、いたってざっくばらんな性格であることがこの講座を通して分かった。会場に小走りで入ってくるや否や、障害物をぴょんと飛んで自分の席に座り、聴講者に向かいにっこりと笑いながら挨拶をした。何か、街で遇ったら「やあ、アシュケナージさん今日は」と声を掛けたくなるような雰囲気だ。5月と6月の定期演奏会で、アシュケナージがN響を指揮したのは、AプログラムがR.シュトラウスの「変容」とブラームスの交響曲第4番、Bプログラムがショスタコーヴィッチの「弦楽八重奏のための2つの小品」と交響曲第5番、それにプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番である。

 アシュケナージは、今回の選曲について次のように語る。「R.シュトラウスはナチに対して、ショスタコーヴィッチは旧ソ連政府に対して批判した結果、これらの作品が誕生した。R.シュトラウスはナチの傲慢さを嘆き、ショスタコーヴィッチは交響曲第5番を作曲したことによって、スターリンの自分に対する批判を封じたのだ。つまり、この2曲は、独裁者に対する批判精神という点で共通するものがある。ショスタコーヴィッチは、軍が勝利したわけではなく、2000万人ものロシア国民の犠牲によって勝利したことを言いたかった。ショスタコーヴィチは直接何も言っていないが、最後のフレーズを聴けば勝利の歓喜の曲ではないことは歴然としている。そして、旧ソ連政府の意に沿わない交響曲第9番をわざと書いた。R.シュトラウスは、文化大臣のときナチを批判し、収容所へ送られ、ここでナチへの批判を『変容』という曲に込めたのだ」

 アシュケナージは、ショスタコーヴィッチと挨拶を交わし、プロコフィエフの生の演奏も聴いているそうである。プロコフィエフも、旧ソ連政府の「労働者階級のために曲を書け」という指示に対して批判を行った。旧ソ連政府は、プロコフィエフが病状の悪化を理由に自宅に引きこもったことに対しては、それ以上追求はしなかった。このことについてアシュケナージは「当時プロコフィエフは既に世界的に大作曲家扱いだったので、旧ソ連政府でも手が付けれなかったのだろう」と言う。それは、スターリンが死んだ同じ日(1953年3月5日)に、プロコフィエフも死んだが誰も知らなかったことでも分かる。そして、モスクワ全体がスターリンが死んだことで喪に服し、街では泣きながら歩いている人も多くいたということだが、これについてアシュケナージは「洗脳されることの恐ろしさを感じる」と当時を振り返る。

 これから、アシュケナージが指揮する演奏会やCDを聴く機会があるだろうが、そのとき若き日のアシュケナージが経験した全体主義の嵐を少しでも意識して聴いたならば、その演奏の印象も少しは違って聴こえてくるかもしれない。暗い過去の話を終えると、アシュケナージの表情は、会場に入ってきたときと同じチャーミングな笑顔に戻っていた。そして入ってきたときと同じに小走りで出口に向かい、最後にくるりと振り返り、大きな声で「シー・ユー・アゲイン」とひとこと言って会場を去っていった。アシュケナージは、時代の大きなうねりに翻弄されながらピアニストの道を歩み続け、さらにこれからは指揮者の道を極めようとしているのである。(蔵 志津久)

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2011年2月23日

♪ 朝比奈隆から大植英次そして大阪フィル2011年東京公演 


 大植英次指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団の東京公演が、2011年2月20日にサントリーホールで開催されるというので聴くことにした。曲目はショスタコーヴィッチの交響曲第9番とブルックナーの交響曲第9番である。お目当ては、大植英次がどうブルックナーの交響曲第9番を振るのかということに尽きる。私は、ショスタコーヴィッチの第9交響曲については印象が薄く、何で今回のコンサートで取り上げるのかイマイチ納得がいかないまま、演奏が始まってしまった。演奏自体は細部にわたって実に丁寧に音が鳴り響き、大植英次の指揮ぶりも中庸をえた安定したもので、じっくり聴かせたといった感じであった。しかし、演奏が終わっても、私にとって、このショスタコーヴィッチの交響曲第9番は正体不明のシンフォニーであることには変わりはなかった。一説では、ショスタコーヴィッチがベートーヴェンが第9交響曲で終わってしまったジンクスをクリアーしようと、わざと力を抜いて作曲したとも言われている。これから何回聴くか分らないが、私にとってこのシンフォニーは永久に謎で終わりそうだ。

 そして、ようやくお目当てのブルックナーの交響曲第9番が始まった。大植英次は指揮台で祈るような姿勢で指揮をゆっくりと始める。私は「おゃ」という思いがした。あの大植英次なら第1楽章から大上段に振りかぶって、全力疾走するに違いないと勝手に考えていたが、どうも早とちりしてしまったようなのだ。大植はじっくりと手綱を絞り込み、豊かな自然の中、伸び伸びと散策でもしているような雰囲気を醸し出し、会場の雰囲気を和ませる。そして、第2楽章に入るのだが、今度ばかりは大植の本領発揮で、大阪フィルのメンバーの能力をフル発揮させ、地の底から鳴り響くような凄みのある迫力で、会場全体をオーケストラの音で包み込む。迫力と深みのある音が聴衆に襲い掛かってくるようだ。この辺は絶対ナマの演奏でしか聴けない醍醐味だ。さらに、第3楽章も第2楽章の余勢をかって、高揚感を感じさせる演奏だが、どことなく第1楽でみせた和やかな雰囲気も時折組み込みながら、バランス良く、しかもスケールを大きく描きながら終えた。そして、ブラボーが聴こえる中、大植英次は何度もカーテンコールに現れたのだった。

 大阪フィルの音は非常に明確で、良く訓練されたオーケストラだな、という印象を受けた。特に感心したのが、ブルックナーの音楽を自分達の音楽として完全に消化していることである。東京を拠点とするオーケストラは、その演奏技術では秀でているかもしれない。あるいはどんな曲でも器用に弾きこなす点では地方オーケストラ(私はあまり好きではない呼び方だが)より一日の長があるのかもしれない。しかし、それらの技量が西洋音楽の紹介といった中途半端な立場から抜け出てないように聴こえてならない。”個性のないオーケストラ”、東京を拠点にするオーケストラをこう評しては怒られるのだろうか。今回の大阪フィルの演奏を聴いて、オーケストラに個性はなくてはならないもの、ということを私は強く印象付けられた。単にブルックナーの音楽を紹介しようとするのではなく、「今のの日本人である我々はこうブルックナーを解釈して、その結果こう表現したい」と大植英次&大阪フィルは、聴衆一人一人に直接語りかけているみたいに私は感じた。その結果、ブラボーの歓声も飛び出す聴衆の大満足(私もその一人)だったのだ、と私は一人で勝手に今納得している。

 その背景には、朝比奈隆(1908年―2001年)の存在の大きさが改めて感じられる。朝比奈は、正規の音楽学校で音楽を習ったわけでなく、見よう見まねで個別の先生から音楽を取得していき、最後に指揮者に辿りついた。そして1947年には、現在の大阪フィルの母体となる関西交響楽団を結成している。そんな経歴が、単に西洋音楽を紹介する、といった平凡な動機ではなく、自分達の音楽をつくろう、といったような独立心旺盛な音楽環境を目指すことなったのではないかと思う。こう考えると朝比奈隆が正規の音楽学校で学ばなかったことが、今の大阪フィルの自立心みたいなものを生み出したのではなかろうか。一方、2003年から朝比奈隆の後を継いだ大植英次は、2005年に東洋人の指揮者として初めてバイロイト音楽祭の本公演でワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を指揮し、同音楽祭の歴史に足跡を残すなど、西洋音楽の本流を歩んできた。ある意味で朝比奈隆の夢を大植英次が実現したともいえるのだ。そんな2人の指揮者の歴史があってこそ、今回の大阪フィルのブルックナーの第9交響曲の演奏が聴衆から熱い支持を受けたのだと私は思っている。これからのオーケストラは、いかに個性的な演奏をするかが鍵を握っているように思えてならない。それにしても、大植英次&大阪フィルの演奏を聴いて、「ブルックナーの音楽は、何と日本の空気に馴染むことよ」と感じ入った次第である。そして、日本の寺院でブルックナーの演奏会を開催しても絵になるなぁ、とも思った。(蔵 志津久)

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2010年12月30日

♪ 指揮者・柳澤寿男が、コソボで命懸けで成し遂げた2つのコンサートの快挙 


 多くの日本人は、コソボという名前を聞いても、確か以前”コソボ紛争”といったことをニュースで聞いたことがあるな、といった程度の認識しか持ち合わせていないのではないだろうか。実は、私もそうであった。コソボ共和国は、バルカン半島にある国で、2008年2月に独立した世界で一番新しい国であるという認識は、昨年、テレビで国立コソボ・フィルハーモニー常任指揮者・柳澤寿男の活動の報道を通して得たものである。そのときのテレビ番組では、確か日本でセルビア人とアルバニア人とが集まりコンサートを成功させたところで終わっていたかと思う。そんなことがあり、その後私は時々、「どうなったのかなあ」とコソボのことを思い出すことがあった。

 そして、ふとテレビ番組表を見たら「戦場に音楽の架け橋を~指揮者 柳澤寿男 コソボの挑戦~」(2010年12月29日、BSジャパン)と出ているのを発見!早速「その後、セルビア人とアルバニア人の演奏家同士の交流は続いているのか?」という思いで、食い入るようにテレビの画面に見入ったのである。番組は2時間という長いドキュメンタリー番組なのにも関わらず、柳澤寿男の正に命がけの奮闘努力の様子が画面からもひしひしと伝わり、2時間が一瞬のようにすら思えたほどであった。現在、表面的にはコソボ共和国として一つの独立国とはなっているが、橋を挟んで、セルビア人とアルバニア人とが交流もなく,対峙しているのが実態。つまり、戦火は一応止んではいるが、2つの民族の溝は何にも変わっていない様子が映し出されていた(セルビア人地区には武装した軍隊が警備に当たっている)。

 そんな中、柳澤は、セルビア人とアルバニア人による合同コンサートができないものかという、当時としては奇想天外で、しかも命にも関わりかねない難問への取り組みを開始したのである。案の定、国連事務所などに話を持っていっても、「危ないから止めた方がいい」といった反応がほとんどであった。しかし、柳澤は決して挫けない。それは「音楽に国境があってはならない」という固い信念に基づいたものであった。そんな柳澤の思いが通じたのか、賛同する演奏家が徐々に出始め、橋を挟んでセルビア人地区とアルバニア人地区とで、それぞれ1回ずつコンサートを開催するまでに漕ぎ着けた。しかし、本当に演奏家が会場まで来るのか、何の保証もないのである。コンサート当日、会場の前で演奏家の到着を不安げに待つ柳澤。そして、演奏たちの到着を見た柳澤の本当に嬉しそうな顔。どんなドラマよりも手に汗握る場面であった。そして2会場ともコンサートは無事終了した。

 柳澤は、命にも関わりかねない、このようなプロジェクトに何故取り組んだのか?番組では、その回答がいくつか柳澤の口から直接語られていた。「音楽に国境なんて関係ない」「アルバニア人、セルビア人、マケドニア人、それに日本人のコラボレーションで、コソボ・フィルをバルカン一のオーケストラにしたい」「お互いに心を開かなかったら、いいものはできない」・・・。そして、分断の橋の双方でのコンサートを成功させたあと、柳澤は、「音楽に関わってきて良かった」「音楽が架け橋となった」「一生忘れられない演奏会となった」などと言った後に、「音楽の持つ力を実感できた」とポツリと語っていた。柳澤寿男の信念と実行力には敬服すべきものがある。「ペンは剣より強し」という言葉があるが、柳澤が今回成し遂げたことは、「音楽は剣より強し」ということを実証して、皆の前にはっきりと提示したことに意義があるのだと思う。今年は、宇宙探査衛星「はやぶさ」の快挙に日本中が賞賛の声で沸き返ったが、私は、柳澤が命がけでコソボで2つのコンサートを成功させたことは、決して「はやぶさ」に劣ることのない快挙であると思う。(蔵 志津久)

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