2010年12月24日
ホルストの「惑星」をカバーしたデビュー曲「ジュピター」で一躍スターの座を射止めた平原綾香が、今回、何とベートーヴェンの第9交響曲の第3楽章に自ら歌詞をつけた世界初の歌「LOVE STORY」を歌った模様が、このほどテレビで初公開された。
実際に平原綾香が歌ったのは、一般公募で参加した1万人の合唱団が、プロの歌手とともにベートーヴェンの「交響曲第9番」を歌い上げる、今年で28回目を迎える大阪の師走恒例の大規模コンサート「サントリー1万人の第九~歌のある星へ~」(2010年12月5日・大阪城ホール)でのこと。この公演の模様が、12月23日の特別番組「1万人の第九 meets 平原綾香~フロイデ×ジョイフル~」(毎日放送ほか)としてテレビ放映されたもの。
仕掛けたのは、「サントリー1万人の第九」の総監督であり、来年ベルリン・フィルを振る指揮者の佐渡裕。平原綾香は作詞には相当のプレッシャーがあったようであるが、佐渡の助言で何とか乗り越え公演にこぎつけたものらしい。私は、最初ベートーヴェンの第9の第3楽章と聞いて、第4楽章の間違えではないかと思った。でもよく考えてみると、何時も第9の第3楽章を聴くとき、あのメロディーを、何となく小さく口ずさんでいる自分に思い当った。「そうなんだ、第3楽章は歌にして歌えば、第4楽章に勝るとも劣らない曲になるんだ!」このことをいち早く見抜いたのが佐渡裕だし、その期待に応えたのが平原綾香だ。
私はこの番組で演奏された賛美歌「ジョイフルジョイフル(Joyful, joyful)」にも大いに興味を引かれた。この曲は、ベートーヴェンの交響曲第9番の第4楽章の主題旋律に、新たな歌詞(英語)を付け、1907年に発表されたものだという。番組では、平原綾香と共演の子供達が、ゴスペル調の「ジョイフルジョイフル」を踊りながら熱唱していた映像に強い印象を受けた。
普通、クラシック音楽を聴く場合、表情を一切出さず、身動き一つしないというのが“しきたり”となっている。本来これはおかしいことで、人間は良い音楽を聴いたときは、体を動かしたり、声を出す方が自然なのだ。もし演奏家が体を動かさないで演奏したら、いい音楽なんて演奏できるわけがない。リスナーだけに“不動の姿勢”を強いる、今のクラシック音楽界のあり方自体に私は以前から強い疑念を持っている。
そんなわけで、私は佐渡裕&平原綾香が生み出した、ベートーヴェンの第9の第3楽章の“世界初”であり“日本発”の歌「LOVE STORY」が世界に向かって広がったらいいな、と思うし、なにより、きっと草葉の陰でベートーヴェンが大喜びするに違いないと思っている。2011年3月には、CDのアルバムに収録され発売されるらしいので今から楽しみだ。(蔵 志津久)
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2010年12月18日
日本人が海外の音楽コンクールで入賞することは、そう珍しいことではなくなってきた。最近では優勝者の数も多くなってきたように思う。2009年は、辻井伸行が第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールで優勝し、国民的喝采を浴びたのは、まだ記憶に新しいところ。同じ2009年、山田和樹が第51回ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝している。さらに宮田大が同じく2009年、4年に一度開催され、チェロ部門の国際音楽コンクールの最高峰と言われるパリ市主催の第9回ロストロポーヴィチ国際チェロコンクールで日本人として初の優勝を果たした。そして2010年には、ジュネーブ国際音楽コンクールのピアノ部門で萩原麻未が日本人初優勝を成し遂げた。同コンクールのピアノ部門でのこれまでの第1位受賞者は、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、フリードリヒ・グルダ、マルタ・アルゲリッチなど、そうそうたるピアニストが名を連ねており、ポリーニでさえ2位に甘んじたほどレベルの高いコンクールとして知られている。
その30年も前、世界3大音楽コンクールの一つとして知られる「エリザベート王妃国際音楽コンクール」に日本人として初めて優勝という快挙を成し遂げたヴァイオリニストがいる。現在ベルギー在住のヴァイオリニストの堀米ゆず子である。何故、突然堀米ゆず子かというと、一つは私が書いているブログ「クラシックLPレコード倶楽部」に掲載するため、エリザベート王妃国際音楽コンクールに優勝した年に堀米ゆず子が録音したブラームスのヴァイオリンソナタ第1番と第3番のLPレコード(写真)を改めて聴いてみたことである。その瑞々しい感覚に今聴いてみても新鮮さを感じられるし、若々しく伸びやかな音づくり、さらに借り物でない自発性のある音楽性を聴いて、改めてエリザベート王妃国際音楽コンクール優勝者だけのことはある演奏だなとの思いを深くした。もう一つは、12月11日にBS-TBSで放映された「音楽を次の世代に・・・世界に誇る日本人バイオリニストの挑戦」を見たためである。
現在、堀米ゆず子は、ベルギーで家族とともに生活をしているが、現地でヴァイオリニストとして尊敬を集めている様子には感心した。日本人が西洋音楽の本場で居を構え、しかも、西洋音楽そのもので高い評価を受けていることに、正直「凄いことだ」と思わずにいられなかった。現在、堀米ゆず子はブリュッセル王立音楽院客員教授を務めているが、世界中から集まってくる若い演奏家が堀米ゆず子の演奏を聴き、皆が「何とか堀米先生の演奏に近づきたい」と語っていることでもこのことが裏付けられる。堀米ゆず子は、時々日本でも演奏会を行っているが、安い料金で若い人が少しでも多く生の音楽を聴けるような活動に参画していることも、この番組で紹介されていた。その堀米ゆず子の日本でのヴァイオリンの先生が江藤俊哉(1927年―2008年)だったのである。
日本のクラシック音楽の演奏家の多くは海外留学をする。サントリーホールとか東京文化会館など、一流のコンサートホールで演奏する日本人演奏家のほとんど全てが海外留学の経験者である。まあ、東洋人が西洋音楽を演奏するのであるから、本場で修業するのは、当たり前と言えば当たり前の話だが、実は堀米ゆず子は、エリザベート王妃国際音楽コンクールで優勝する前には、海外の経験はなかったのである。つまり、日本の国内でクラシック音楽の勉強をし、本場に乗り込み、いきなり優勝したのである。当時、第1次審査の堀米ゆず子の演奏を聴いて、地元ベルギーの新聞は「ここに希有の天才が現れた」という書き出しで、彼女の演奏を絶賛した。このことからも海外留学は、必ずしも一流演奏家になるための絶対条件でないことが分かる。問題は受けた教育の"質”そのものにある。テレビで堀米ゆず子は「江藤先生は怖くてしょうがなかった」と語ると同時に今あるのは江藤先生のお陰とも語っていた。海外留学はあくまで手段であり、仮に日本にいても、正しい教育を受ければ一流のクラシック音楽の演奏家は育つのだということを、この放送は教えてくれていたように思う。(蔵 志津久)
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2010年12月03日
NHN教育テレビで「オーケストラの森―創立30年 新たな名前で次の時代へ~大阪交響楽団~」(2010年11月28日放映)を途中から見ていたら、タネーエフの第4交響曲が児玉宏指揮の大阪交響楽団の演奏され、初めて聴くことができた。なかなか正統的な交響曲で、ドイツの伝統ある曲にも聴こえたし、一方ではチャイコフスキーの曲のようなロシア国民楽派の曲のようにも聴こえ、愉しむことができた。いずれにしても、滅多にコンサートでは聴けない曲(アマゾンなどでCDは購入できるようであるが)なのに何故放映されたのか?と不思議に思い見ていたら、2008年から大阪交響楽団の音楽監督に就任した児玉宏の「日本で馴染みの薄い作品を積極的に取り上げる」という方針の下、実現したということであった。
考えてみれば、コンサートやテレビで放送される曲目は、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームス、チャイコフスキーなどなど、すべて大昔から変わらない大家の作品ばかりで埋め尽くされている。もう、我々の頭に既成概念が出来上がり、著名でない作曲家については、文字通り「聴く耳持たず」とばかり無視してしまう。「それはないだろう」と立ち上がったのが児玉宏であったのである。曲目の斬新さもあり児玉宏が音楽監督に就任後、大阪交響楽団のコンサートの聴衆が増え始めているとうから驚きだ。「まあ、モーツァルトやベートーヴェンを演奏曲目にしておけば安泰」といった今のオーケストラ運営に、児玉宏が警鐘を鳴らしたとも取れるのである。
児玉宏は、1952年生まれ。1975年桐朋学園大学を卒業し。齋藤秀雄、小澤征爾に師事した“斉藤門下生”の一人なのだ。大学卒業後すぐにドイツに渡り、劇場の下積みからキャリアをはじめたとあるから、文字通り本場仕込みの指揮者といえる。1996年ー2001年、バイエルン州立コーブルク歌劇場の音楽総監督を務めた。そして、2008年4月、大阪交響楽団(旧大阪シンフォニカー交響楽団)の音楽監督・首席指揮者に就任し、今日に至っている。これまでドイツでの指揮者活動が長かったので、日本での知名度はまだこれからといえるだろう。そんな児玉宏であるからこそ、日本の既成概念を破り、タネーエフという日本ではあまり馴染みのない作曲家の作品をコンサートの曲目に取り上げ、結果として聴衆から支持を受けるという、これまでのクラシック音楽界では考えられなかった“快挙”を成し遂げたと言えまいか。
現在、コンサートで取り上げられる曲目が固定してしまっている一因は、一昔前に一大勢力を形成していた、いわゆる“現代音楽”にあると私は思っている。例えば、ジョン・ケージなどは、ピアニストが舞台に登場し、ピアノを弾かず退場し、それが音楽作品だと主張する。また、同じフレーズをピアニストが何百回と演奏する現代音楽もある。これらの作品自体を高く評価する音楽専門家はいるし、それはそれでかまわないと思う。ただ問題なのは、そんな“先進的な現代音楽”が分らないのは遅れているといった風潮が蔓延したことだ。このことで多くの健全な聴衆が現代音楽から離れていってしまい、結果として有名な作曲家の“安全な曲”しか聴かなくなってしまったのだ。そんな中で児玉宏の投げかけた「日本で馴染みの薄い作品を積極的に取り上げる」という方針は、大きな意味があると私は考えている。有名な作曲家の“安全な曲”以外の“隠された名曲”探しを、リスナー自身が始める時が来ているのではないかと思うが、いかがなものであろうか。(蔵 志津久)
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2010年11月23日
第16回ショパン国際ピアノ・コンクールが、10月3日―10月20日、ポーランドのワルシャワで開催された。結果は、第1位:ユリアンナ・アヴデーエワ(25歳 ロシア)、第2位:ルーカス・ゲニューシャス(20歳 ロシア/リトアニア)、第2位:インゴルフ・ヴンダー(25歳 オーストリア)、第3位:ダニール・トリフォノフ(19歳 ロシア)、第4位:エフゲニー・ボジャノフ(26歳 ブルガリア)、第5位:フランソワ・デュモン(25歳 フランス)、第6位:該当者なし、という結果となった。
第1位のユリアンナ・アヴデーエワは、マルタ・アルゲリッチ以来、実に45年ぶりの女性優勝者となったというから凄い。2006年のジュネーブ国際コンクールでの優勝者でもあり、実力発揮といったところであろうか。今回は「ソナタ賞」も併せて受賞した。ロシアからは、第2位にルーカス・ゲニューシャス、第3位にダニール・トリフォノフも入賞し、暫く低迷していたロシアのピアノ界の復興が予見される。
ポーランドのワルシャワで5年に一度行われる「ショパン国際ピアノ・コンクール」は、3大国際音楽コンクールの一つに挙げられる程、権威があり、ピアニストの憧れのコンクールある。今回は、ショパンの生誕200周年記念大会ということで、大変な盛り上がりだったようである。第1次予選が10月3日―7日、第2次予選が9日―13日、第3次予選が14日―16日、本選が18日―20日というスケジュールで行われた。日本から1985 年の第11回コンクールで第4位入賞を果たしたピアニストの小山実稚恵が審査員として参加したほか、第8回コンクールで第2位入賞の内田光子が記念リサイタルを開催するなど、日本勢の活躍が大いに期待された。
その結果はどうだったかというと、日本人は17名が予選に参加したが、6名が2次予選に進んだのが最高で、3次予選にも本選に誰も進むことができず、入賞なしというなんとも哀れな結果に終わってしまった。過去の日本人の成績はというと、日本人はまだ優勝者こそ出していないが、田中希代子(第10位、第5回)、内田光子(第2位、第8回)をはじめ多くの入賞者を出してきており、特に1980年の第10回大会からは毎回入賞者を出すという輝かしい伝統を誇ってきた。しかしながら、今回その輝かしい伝統は崩れ去ってしまったのだ。
今回は、世界各国から17歳から30歳までの355人が応募し、予備審査を通過した81人がコンクールで腕を競った分けであるが、日本人出場者は17人と過去最大の人数となり、地元のポーランド(7人)やアメリカ(5人)、フランス(4人)などを大きくしのぎ、国別でもロシア(12人)を上回る最大勢力になった・・・のにこの情けない結果に終わってしまった原因は何か。注目すべきは、最近の主だった国際コンクールで上位入賞を果たしてきたアジア勢(中国:8人、台湾:5人、韓国:4人)が、今回のショパンコンクールでは入賞を果たせなかったことである。
これには、今回から審査方法が変更され、ポーランド人出身者の審査員が半減したことにも影響しているかもしれない。私が危惧するのは、最近の国際コンクールの様子を見ると、アジア勢が力に任せたテクニックで入賞をもぎ取るといったケースが目に付き始めたこと。ひょっとして、ヨーロッパの審査員は、そんな風景を目にしてアジア出身者へ厳しい目を向け始めたのではないだろうか。つまり「音楽はテクニックだけではない」と。審査員の小山実稚恵も「(日本人は)近道をして結果を早く出したい、そんな傾向が見えました」と印象を語っている。
一方で、日本にとってうれしいニュースがなかったわけではない。それは、アヴデーエワがヤマハのピアノ「CFX」を使用して優勝したことで、ショパン・コンクールの歴史のなかで、日本製のピアノを弾いて優勝者が出たのはこれが初の"快挙”という。これにより、日本製ピアノの実力が世界に認められたことになる。そして、ボジャノフを除く入賞者5人が、2011年1月に行われる「ショパン国際ピアノ・コンクール2010入賞者ガラ・コンサート」に出演し来日することが決定した。共演はアントニ・ヴィット指揮のワルシャワ国立フィル。東京・Bunkamuraオーチャードホール(2011/1/22、1/23)他、全6都市での開催されるという。コンクールで敗れ去った日本が、楽器では勝利し、入賞者のコンサートをいち早く開催に漕ぎ着けた・・・というなんとも皮肉な結果になってしまったようだ。(蔵 志津久)
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2010年11月12日
2010年7月17日付けの日本経済新聞に「クラシック界に新風」という記事が掲載されたが、この中で日本でオーケストラ指揮する“30歳前後の指揮者台頭”の状況が紹介されている。登場する若手指揮者は、アンドリス・ネルソンス(ラトビア出身、31歳)、オメール・メイア・ヴェルバー(イスラエル出身、28歳)、ピエタリ・インキネン(フィンランド出身、30歳)、ヤクブ・フルシャ(チェコ出身、28歳)などだ。
そして、世界の30歳前後の指揮者のスター的存在として、昨年、ロサンゼルス・フィルハーモニックの音楽監督になったゲスターボ・ドゥメルダ(べネズエラ出身、29歳)を挙げている。日本人としては、山田和樹(31歳)、川瀬賢太郎(25歳)、それにイタリアのアントニオ・ペドロッティ国際コンクールで優勝し、現在ミラノで修行中の三ツ橋敬子(30歳)の名前が挙げられている。
この中の一人、三ツ橋敬子の経歴を見てみよう。1980年東京都生まれ。16歳より指揮を学ぶ。1999年東京藝術大学音楽学部指揮科に入学し、2003年3月に卒業。同年4月同大学大学院音楽研究科指揮専攻に入学、2005年3月修了。 2005年よりローム ミュージック ファンデーションより奨学金を授与され、ウィーン国立音楽大学に留学。指揮科及びオペラ劇場音楽科にて学ぶ。2003・2004年ウィーン音楽ゼミナール・国際指揮マスターコースに参加、同コンクール第1位を獲得。 2004年よりイタリア・シエナのキジアーナ音楽院にてオーケストラ指揮を学ぶ。数回にわたり特別賞奨学金を受ける。 2006年キジアーナ音楽院より最優秀受講生に贈られる名誉ディプロマを授与される。 2008年第10回アントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールにて日本人として初めて優勝。併せて聴衆賞、アントニオ・ペドロッティ協会賞を獲得、とある。
この三ツ橋敬子のこれまでの経歴を見ると、シンデレラ物語を読むようなその成功物語のストーリーには驚きだ。これまで、日本の女流指揮者というと、1982年ブザンソン国際指揮者コンクールで女性として史上初、小澤征爾に継いで日本人二人目の優勝者である松尾葉子、そして、28歳のデビューから37歳までロシアを拠点に活動を続け、今人気絶頂の西本智実などを挙げることができる。
今後、三ツ橋敬子が松尾葉子や西本智実に次いで、スター女流指揮者の座を獲得することになるのか、期待をもって見守って行きたい。(蔵 志津久)(2010/8/2)
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2010年11月12日
チェロの響きは、懐が深いとでもいおうか、ヴァイオリンには出せない独特の音色が何とも好ましい。しかし、私はピアノのコンサートやヴァイオリンのコンサートには時々行くが、何故かチェロのコンサートには行かない。聴きたいのであるが、何故か行かないのである。この一つ原因は、チェロのコンサートの回数が、ピアノやヴァイオリンに比べ少ないこともある。
そんなことで、チェロのコンサートがあれば行こうと思っていたところ、丁度、朝日カルチャーセンターで、ロストロポーヴィッチ・チェロ・コンクールにおいて日本人で初めて優勝した宮田大(1986年生まれ)が、話と演奏をするということなので、即座に行くことに決めた。朝日カルチャーセンターのレクチャーコンサートは、普通の講義室で行われ、演奏家の直ぐ側で、あたかもその演奏家の家の中で聴くようで、アットホームの感じがしてなかなかいいものである。
当日は、「マロの部屋 第1回」のゲストとして宮田大が招かれたというお膳立てであった。かの有名な「マロ」ことNHK交響楽団第1コンサートマスターの篠崎史紀氏が演奏家たちを招き、対談を行うというシリーズ企画なのだ。
話は、宮田大の桐朋女子高等学校(普通高校でも女子高と名前が付けられていたそうな)時代は、片道2時間かけて毎日宇都宮の自宅からチェロを持って3年間通っていたことなどが語られた(本人は母のパワーがそうさせたという)。海外留学はジュネーブ音楽院に入り、今はドイツで一軒家を借りて住んでいるそうだ。日本ではまず学校を選ぶが、ヨーロッパはまず先生を選ぶそうである。先生と生徒の相性を重要視するようだ。コンクールも日本とヨーロッパは大分違うようで、日本のコンクールでは一切拍手はないが、ヨーロッパではコンクールは演奏会と一緒で、終わると拍手があるという。宮田は日本でもそうあってほしいとさかんにアピールしていた。
また、当初宮田は、自分が演奏する曲に日本人作曲家の作品を入れてなかったが、「日本人であるあなたが何故日本人の作曲家の作品を演奏しないのか」という疑問を外国人に投げかけられ、それ以後、日本人の作品を演奏するようにしているそうである。この辺も今後の日本人が考えなければならないテーマの一つだと言えそうだ。
さて、最後に演奏が行われた。N響のコンマスのマロさんがヴァイオリン、宮田大がチェロ、それにN響のメンバーの女性がピアノという、臨時編成の豪華メンバーで、ラフマニノフとアレンスキーのピアノ三重奏曲が演奏された。宮田大のチェロは、決して浪々と大きな音を響かせるのではなく、小気味良く、切々とした心情を吐露するような、ニュアンスのある演奏ぶりに思わず引き付けられた。マロさんは演奏が終わった後、宮田大のチェロ演奏を評して「語るような演奏」と言っていたが、正にそのものずばりだと思う。(蔵 志津久)(2010/7/26)
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2010年11月12日
2010年7月13日の午後8時から9時35分の1時間35分にわたって、NHKハイビジョンテレビで「クラシックドキュメンタリー ヘルベルト・フォン・カラヤン」が放送された。これは、20世紀でおそらく最も有名だった指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンの音楽家としての歩みや芸術への姿勢などを、カラヤンを知るたくさんの人々の証言でたどったもの。カラヤン自身のインタビューや、私生活の映像も数多く盛り込まれているところが見どころだ。製作はUnitel/MRFilm(ドイツ/オーストリア 2007年)。
このテレビ放送は、前半と後半のカラヤンの人間性が大きく変化を遂げたことを、意識的にか、あるいは事実に即してかは判然としないが、とにかく別人の如く変貌を遂げたことを数々の証言が明らかにしていた。
若い頃、オーケストラのコンサートマスターをカラヤンが首にし、これに怒ったコンマスは、実際に拳銃を懐に、カラヤンを撃とうとし、寸前のところで取り押さえられたことも証言されていた。また、「あんな神経質な指揮者はきらいだ」と皆が言っていたという証言も飛び出す。ナチ党員であったことに触れるのかどうか興味深かったが、本人がさらリ認め、「どうってことないよ」とかわしていた。専属指揮者に就任当日に党員になったことが本人の口から証言されていた。カラヤンとしては、指揮者就任の挨拶程度ということを言いたかったようであるが、見方を変えれば、指揮者就任の条件であったかもしれないのだ。
後半は“人間味溢れるカラヤン”が描かれる。ジェット機の操縦を自らし、ムターなどを喜ばせ、ヨットを自ら操り家族サービスをするなど、日常のカラヤンの生活が紹介される。ただ、鋭い眼光だけはどんな時も同じなのは、可笑しいといえば可笑しい。普通の人なら、目つきも温和になるはずなのに・・・。「彼は何時も真面目」という証言があったが、仕事も遊びもいつも真面目に取り組んでいたということだろう。
オペラの映像がかなり映されたが、びっくりするのは指揮台で指揮をするのではなく、自ら演出家となって、歌手に振り付けの指導をすること。あれでは演出家の出番がなくなるだろうに。ウィーンフィルとのゲネプロでは、ジョークを飛ばし盛んに楽団員の笑いを誘っていた。若いころの“無口で神経質な指揮者”の姿はもうそこにはない。
カラヤンほど、その一挙手一投足が注目された指揮者はいなかった。しかし、そこには支持者と同数の非支持者もいたことはいた。ただ、「カラヤンが来るといつでもその回りはとてつもない緊張感に包まれ、そして、指揮をしているときの姿から発する見えない力に皆金縛りになった」という証言は、カラヤンが如何に図抜けた指揮者であったかを証明している。(蔵 志津久)
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2010年11月11日
イーヴォ・ポゴレリッチは1958年ロシアのベオグラード生まれのピアニストである。その彼に一躍世界中の注目が集まったのはショパン国際コンクールであった。といっても上位に入賞して注目を浴びたわけでないから面白い。
1980年のショパン国際コンクールの本選を前に落とされ、このことで審査員の間で論争が起こり、抗議して帰国してしまう審査員も出たそうである。その中の一人に、かの有名なマルタ・アルゲリッチがいたことがポゴレリッチを一躍時の人にしてしまったのだ。アルゲリッチは無名のポゴレリッチを「だって彼は天才よ!」と言ってのけたというのだ。
そのポゴレリッチが、確か3年ぶりに来日して、サントリーホールでリサイタルを開くというので聴きに行ってみた。現在“ピアノ界の異端児”として自他共に認める(?)ポゴレリッチが果たしてどんな演奏を聴かせてくれるのか、半分興味津々、半分恐る恐るで出かけて見ることにした。
大ホール内は、ゴールデンウィークの最終日というハンディ(?)にもかかわらず、ほぼ満席の状態で人気のほどが窺える。
さて、演奏であるが、これがまた凄まじかった。クラシック音楽の常識をひっくり返すような、破天荒なピアノ演奏をやってくれた。ショパンの夜想曲から始まったのであるが、まあ、これはこれなりにあるかな、といった許容範囲内であったように感じられたが、ショパンのピアノソナタ第3番が始まると「はてこの曲は誰のなんていう曲?」と隣の人に聴きたくなるまでに、変貌を遂げてしまったのだ。
ショパンの曲は、「花束の奥に大砲が隠されている」と言った表現が使われるが、その日のポゴレリッチの演奏は、正に花束を隠して大砲を前面に描き出したように私には感じられた。であるからして、破天荒な弾き方であっても、これはこれでありかな、とこれも肯定的に捕らえ、後半の演奏に期待をつなぐことにした。
後半の最後のラヴェルの「夜のギャスパール」の演奏も、破天荒な演奏で、ほとんどラヴェルとは思えないものに変貌を遂げていた。しかし私はそんな新解釈があっても決して悪くないと思う。私にとって問題は、ピアノを鍵盤楽器ではなく、打楽器化したことだ。私は、これはやりすぎで、許容外になるのではないのかと思う(現代音楽ではしばしばやるのだが)。
過去の伝統的なクラシック音楽を、ジャズ(ラヴェルなどは影響を受けたが)やロックや現代音楽風に新しく解釈し直して演奏することは、果たして何を意味するのか。ポゴロレチがそうであるとは言わないが、古いクラシック音楽を現代に蘇らそうとして、彼なりの挑戦をしているようにも見えるのも事実なのだが・・・。最後の演奏が終わり、アンコールの拍手のとき、少数ではあるが、スタンディングオベーションをする聴衆がいた。おそらくポゴレリッチの熱烈なファンなんであろう。そんなファンを2階席から眺めているとき「異端児が将来、正統として認められることだってあるよ」という悪魔のささやきが、私の頭の片隅をほんの一瞬よぎった。(蔵 志津久:10/5/10)
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2010年11月10日
とある日曜日の午後、東京・新宿の東京オペラシティのタケミツ・メモリアルホールで行われた、ヨーロッパのある室内オーケストラのコンサートを聴きに行ってみた。どの位、観客が集まってくるのか興味津々で見ていたら、あの大きなホールいっぱいの満員となったのである。世の中、不況などというのにクラシック音楽ファンは「なんと熱心なもんだな」と妙な感心をしてしまった。
ただ、“ヨーロッパの”という辺りが集客と関係があるのではと、余計な勘ぐりを入れてしまう。もし、これが日本の室内オーケストラであったら、果たして満席になったか疑問だ。日本人は明治維新以来この方、欧米に追いつき、追い越せの精神でやってきて、ようやくGDPで世界第2位になった(もっとも今では中国に抜かれ、近いうちにインドにも抜かれそうだが)。つまり、欧米の技術や文化に接すると、「まずは勉強だ」という習慣から今でも抜け出せずにおり、その結果、特にクラシック音楽では欧米の本場ものなら、何でも?絶賛”する癖がついてしまってはいないだろうか。
最近の日本のクラシック音楽の演奏は、欧米のレベルにかなり接近してきており、日本人の演奏家の方が、来日する欧米の演奏家より、高い場合だって決して少なくない。ただ、?高名”な音楽評論家なんかが、「よく聴くとまだまだ日本の演奏家のレベルは低い」などと雑誌になんかに書くと、?普通”の人は大概沈黙してしまう。音楽評論家は「まだだめだ」と書かないと自分の商売が成り立たなくなるので書くだけなのだ。我々?普通”の人は、自分の耳に自信を持って、欧米の演奏家だろうが、日本の演奏家だろうが関係なく「日曜日の午後の一時を、優れた演奏の、心やすまるクラシック音楽を聴いて、互いに楽しもう」という精神でコンサートに出かけたいものだ。
ところでこの演奏会でもう一つ気になったことがあった。あるピアニストによるピアノ協奏曲の演奏があったのだが、私にはこのピアニストの演奏が、聴いていていまいち気分が乗れなかったので、拍手を3回だけして後はしなかった。ところが、会場は拍手の連続であったのだ。私の隣に座っていた人はちらちら私の方をみて「会場の皆が拍手しているのに、お前だけ何故拍手しないのか」と言っているように私には感じられた。冗談じゃない。「良いか、悪いかは個人が決めるもので、多数決で決めるもんでない!」とその人に言いたかったが、さりとて言う度胸もなかった。我々日本人は、特に欧米人に対しては「わざわざ遠いアジアの島国まで来てくれたのだから、演奏が良かろうが悪かろうが、とりあえず盛大な拍手だけはしておこう」という気持ちが強すぎはしまいか。それとも、私がただひねくれているだけなのか。(蔵 志津久:10/3/27)
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2010年11月10日
今、山形交響楽団が着実に観客動員数を伸ばしているという。07年シーズンから山形交響楽団の音楽監督に就任した飯森範親(いいもり のりちか)氏に、楽団経営の秘訣を聞く機会を得たのでその一端を紹介してみたい。
飯森氏が音楽監督に就任にするに当たり、まず50項目からなるマニュフェストづくりからスタートさせたが、2年を経過した現在まで90%の達成率を成し遂げたというから凄い。まず、第一に取り上げたのが“楽団員の意識改革”だったという。例えば、聴衆の前では楽団員が互いに私語を交わすことを止めることにしたり、舞台上での調整も、聴衆にうまく行っていないのでは、と余計な不安を与えないため止めるなど、基本的なことから始まり、最終的には聴いた後に「チケット料金は安かった」と思わせるほど、充実した演奏内容の実現を目指すこととした。
次に飯森氏が取り組んだのが、スポーツ団体とのコラボレーションだ。山形にはサッカーとバレーボールのプロの団体があるが、これらのサポーターとの交流によるチャリティー演奏会などを行い、地域密着の活動を地道に積み重ねていっさらに取り組んだのが、演奏会の会場で、演奏の前に聴き所のプレゼンテーションをすること。これにより聴衆の理解度も上がり、表情も掴めるようになった。山形放送のアナウンサーとソリストとのトークも行い、これも聴衆の拡大に大いに貢献しているという。
交響楽団としては、初の取り組みとなった独自レーベル「YSO」による録音の事業化もファン拡大に貢献しつつある。最初は反対意見もあったが、楽団が独自に原盤を持つことによりコスト削減を実現させたメリットは大きいという。今後は、インターネット配信にも積極的に取り組む意欲を見せている。
このほか、3月31日の?オーケストラの日”に先立ち、3月28日には、リハーサル見学会、親子による舞台裏見学会、楽器ごとに分かれたワークショップを行うなど、聴衆と一緒になった活動に意欲的だ。6月26日には山形物産展も併設した?さくらんぼコンサート”も計画。
「1%の可能性も諦めるな。良くなる努力を!」と飯森氏は語る。これまで「メディア露出に努力した」(飯森氏)結果、?山響”は?おくりびとのオーケストラ”としても、その名を広く世界に知らしめることに成功したのだ。「今年は?山響”の?IT元年”とし、あらゆるIT化に取り組みたい」と意欲満々。「なによりも山形が大好き」という飯森氏の音楽監督としての手腕に、今多くの期待が集まっている。(蔵 志津久:10/3/22)
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