2025年3月13日
ベートーヴェン: ピアノ協奏曲全集(第1番~第5番)
合唱幻想曲
ピアノ:ダニエル・バレンボイム
指揮:オットー・クレンペラー
管弦楽:ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
CD:タワーレコード(ワーナーミュージック)2173244918 (2023年リマスター)
ダニエル・バレンボイム(1942年生れ)は、アルゼンチン出身で現在の国籍はイスラエル。両親からピアノの指導を受け、少年時代から音楽の才能を発揮する。7歳のときブエノスアイレスで最初の公開演奏会を開いた。1952年家族を挙げてイスラエルに移住。同年ピアニストとしてヨーロッパ・デビューを果たす。1957年にはニューヨークのカーネギー・ホールで米国デビュー。ピアニストとしての名声を確固たるものとした後、1966年からイギリス室内管弦楽団と弾き振りでモーツァルトのピアノ協奏曲の録音を開始し、指揮者としてのデビューも果たす。パリ管弦楽団首席指揮者、シカゴ交響楽団音楽監督、ミラノ・スカラ座音楽監督、ベルリン国立歌劇場音楽総監督、シュターツカペレ・ベルリン音楽監督を歴任。2019年ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団名誉指揮者に就任。これまで「ウルフ賞」、「グラミー賞」、「高松宮殿下記念世界文化賞」など多数の受賞歴を持つ。ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート指揮者は、これまで3回(2009年、2014年、2022年)務めている。
指揮のオットー・クレンペラー(1885年―1973年)は、ドイツ、ブレスラウ(現在のポーランド・ヴロツワフ)出身の指揮者で、20世紀を代表する指揮者の一人。ドイツ圏の古典派・ロマン派から20世紀の音楽まで幅広いレパートリーを持つ。
フランクフルトのホッホ音楽院で学んだ後、22歳でグスタフ・マーラーの推挙を受け、プラハのドイツ歌劇場の指揮者になる。以後、ハンブルク、ストラスブール、ケルン、ヴィースバーデンの歌劇場で指揮者を務める。1921年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にデビュー。48歳の時(1933年)、ナチス政権樹立に伴い、スイスを経由しアメリカ合衆国へ亡命する。亡命後、クレンペラーはロサンジェルス・フィルハーモニックの指揮者となり、オーケストラの水準を大きく向上させる。1939年に脳腫瘍に倒れたクレンペラーは、言語障害や身体の麻痺といった後遺症との戦いを余儀なくされる。第二次世界大戦後はヨーロッパに帰還を果たし、62歳(1947年)でブダペストのハンガリー国立歌劇場の監督に就任。また世界各地のオーケストラにも客演する。1952年にEMIとレコード契約を交わす。1954年(69歳)からフィルハーモニア管弦楽団とレコーディングを開始し、EMIから多くのレコードをリリース。これにより、忘れられていた彼の名は広く知れ渡り、巨匠として世界的な名声を得る。そして1959年8月にフィルハーモニア管弦楽団初の常任指揮者に就任。クレンペラーとフィルハーモニア管弦楽団の関係は、楽団が1964年にニュー・フィルハーモニア管弦楽団として新しいスタートを切った後も変わることなく続いた。
フィルハーモニア管弦楽団は、イギリスのオーケストラで、1945年にEMIの名プロデューサー・ウォルター・レッグによって創設された。本拠地は1995年よりロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホール。イギリス経済の衰退により1964年フィルハーモニア管弦楽団は、自主運営組織によるニュー・フィルハーモニア管弦楽団として再出発することになった。新組織による初コンサートは同年10月27日、楽団の名誉総裁となったクレンペラーの指揮、曲目はベートーヴェンの交響曲第9番。1977年からは再びフィルハーモニア管弦楽団の名称を回復することになる。歴代首席指揮者は、オットー・クレンペラー (1959年 – 1973年)、リッカルド・ムーティ (1973年 – 1982年)、ジュゼッペ・シノーポリ (1984年 – 1994年)、クリストフ・フォン・ドホナーニ (1997年 – 2008年)、エサ=ペッカ・サロネン (2008年 – 2021年)、サントゥ=マティアス・ロウヴァリ (2021年 – )